「明治維新」私感

「明治維新」とは、黒船来航以降社会矛盾が山積し、政権維持が困難となった第15代将軍徳川慶喜が朝廷に政権を返上(大政奉還)、次いで「王政復古の大号令」によってすんなりと天皇を頂点とした新政府ができ、さっそく明治天皇による「五箇条の御誓文」の発表に至った。一部、西南戦争などのくすぶりも若干あったが、それを乗り越えわが国はようやく近代化への歩みを始めた、そんなふうに教わってきたのだが、実際はどうもかなり違っているようだ。
 もし教わってきた通りなら、なぜ「王政復古の大号令」から間もないタイミングで立て続けに「薩摩藩邸焼き討ち事件」や「鳥羽・伏見の戦い」、果ては「戊辰戦争」「函館戦争」といった悲惨な戦いが起こってしまったのか、その流れも含めてまったく説明がつかないのだ。イメージでは「王政復古の大号令」の後、政治的な駆け引きは無用となり、粛々と朝廷を中心とした政府において新しい国づくりのための政(まつりごと)がすすめられていてもいいはずだった。ところが、大げさに言えば鎌倉時代以降行政のシステムもノウハウも持たないできた朝廷は、ひきつづき徳川慶喜に対し執権の一部(とくに対外政策など)を肩代わりさせるほかなく、ひいては小御所会議において、「四賢候」のひとり土佐藩主山内容堂らの親徳川慶喜的発言を牽制して吐かれた西郷隆盛の恫喝「短刀一本あればかたがつくではないか」で強引にかたをつけたはずの慶喜に対する「辞官納地」の命令=処分も、何一つ実体化されることはなかったのである。
 調べてみると「王政復古の大号令」という軍事クーデターは完全に失敗に終わっているのだ。だからこそ、それ以後さまざまな戦乱が引き起こされることになったのである。岩倉具視そして大久保利通と西郷隆盛らはおもわぬ事態の進展に困惑し、異なる方法での武力討幕の策を考えなければならない状況に追い込まれていったのである。その第一歩として打ち出した策が江戸市中を混乱に陥れることだった。西郷隆盛は赤報隊の相楽総三等に薩摩藩邸を拠点として使わせ、放火、略奪などあらゆる手段で実践し、幕府を挑発しつづけたのである。それによって勃発したのが「薩摩藩邸焼き討ち事件」であった。
 ところで、「王政復古の大号令」に先んじて岩倉具視らによって画策された「討幕の密勅」(徳川慶喜はこれを恐れて大政奉還を決断したとも言われている)も現在では偽の勅書であったことが判明しており、これまで教わってきた明治維新史は根本から疑がってしかるべき「虚史」といってよい代物として見えてきている。
 ほんとうに私たちは何を学んできたのだろう。明治新政府を樹立した勢力(過激な攘夷派の公家や薩長土肥が中心)は、討幕の名目として「尊王攘夷」(天皇を尊び外国人を排斥する)を叫んでいたが、「戊辰戦争」そして「函館戦争」に勝利し、最終的に権力を奪取するや一転、「脱亜入欧」(遅れたアジアを脱して文明の欧米列強の側に立つべし)を唱え始める。そしてこの「脱亜入欧」の考え方こそが明治欽定憲法のもと、富国強兵、アジア蔑視、植民地主義思想のベースになっていくわけである。
 遡ってみると黒船来航以後、海外列強との直接的武力対決を回避し、同時に通商交易を指向しようとしていた開国派の幕臣たちを「亡国者・売国奴」とののしり、血祭りにあげるべくテロリズムに身を委ねていた攘夷派を自称するものたちが、こんどは気取って「鹿鳴館」という名の「文明開化」を謳歌し始める変節をどう理解したらいいのだろう。繰り返しになってしまうが、それまで「国学」だ「水戸学」だと言いながら、開国などもってのほかとばかりに、開国を急いでいた大老井伊直弼を桜田門外で殺害、強硬な姿勢で攘夷決行を幕府に迫っていた張本人たちなのだから驚く。その矛盾の印象を薄めるために井伊直弼を徹底的に悪者に仕立て上げる歴史記述が必要だったのだろう。それが「安政の大獄」である。しかし過激な攘夷派の主張通り海外列強と本格的に交戦していたなら今の日本は無かっただろう。外国嫌いの天皇の勅許(日米修好通商条約の承認)を待ってからでは遅いことを井伊直弼は命をかけて判断したのだろうと思う。そうしなければ植民地になっていた可能性はきわめて高いということを井伊直弼は見通し開国を急いでいたのである。付け加えておくなら攘夷派のテロは井伊直弼の「悪」の比ではなかった。誅殺という名目で開国派の人たちとその家族に対してさんざんなことを集団でやり続けていたのだから・・・。
 しかも驚くなかれ、わが国の近代化への基盤整備の多くは江戸末期に小栗忠順ら幕臣たちの手によってすでに着手されていたのだ。横須賀製鉄所建設、郡県制構想(廃藩置県に利用されることになる)、兵庫商社(日本最初の株式会社)、築地ホテル(水洗トイレ付)建設、ガス灯設置の提唱、金札発行など金融経済の立て直し、日本初のフランス語学校設立等がそれで、明治新政府は、それらのプランを模倣し、継承し、応用したに過ぎないのだが、あたかも明治新政府になってからようやく日本の近代化への歩みを始めたかのように歴史書には書き込み続けたのである。やはり歴史は勝者によって書かれるものなのである。

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