沈黙について

 人は黙っていると何も言いたいことがないとみなされがちだ。そして「ことば」にならないかたまりを呑み込んだままぼーっとしていると、この世の習わしでは、おおむね同意したものとみなされてしまう。ちょっと待ってくれ、と心の中で叫んでももう遅い。そこにはちゃんと「黙契」ということばが用意されている。辞書をみると「暗黙の間に成り立った、意志の一致または契約」というものである。なるほどねぇ。
 この図式について、子どもの頃から生意気にも「そうかなぁ」という素朴な疑問があった。詩という表現様式に漂着したのもそんなことと無縁ではなかったような気がする。沈黙の中身を表現するための器のように直感したからである。
 この状態を音楽の世界に移しかえてみると、音を発しない部分にも休符というれっきとした意味をもった音符があって、前後の関係の中では非常に重要な役割を担った存在になっている。けっして何もないわけではない。無音の拍としてしたたかに存在しているのである。
 だいいち日頃の経験でも、何ごとも考え込めば奥が深く、とても軽はずみなことは言えなくなるというのが実状だ。ましてや断言できることなどほんとうに限られているといってよい。しかし、それでは私たちの日常が成り立たなくなるという配慮からか、似合わない親父ギャグなど飛ばしながら、お調子者をよそおって、かろうじて呼吸を続けているという具合なのである。せっかくポジティブな「沈思黙考」なんていうカッコいい四文字熟語があるのに、どうも現実的にはネガティブな意味で「見ざる、言わざる、聞かざる」の世界のようだ。
 私たちは、立ちすくみ、うずくまり、また起きあがり、とぼとぼと歩き続けなければならない。だから上着のポケットは「沈黙」せざるを得なかった「ことば」たちでいっぱいなのである。

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