角度と座標軸

 子どものころ、日本が真ん中に位置していない世界地図を初めて目にしたとき、妙な気分になったことがあった。比較的最近になってからも、スペースシャトルから撮影した地球の映像をテレビで見る機会があったが、その時も、長年慣れ親しんだ東西南北の座標軸があくまでも仮りのものでしかないことを、ズシリと追認させられた。感覚が慣れるまで、地球のどの辺りが映し出されているのかさえわからないほどだった。予想だにしないアングルから北海道の形が見え始めたときも、解説者の説明がなければ、何がどうなっているのかわからなかったほどだ。そして私なりに北海道の地形を確認出来た時には、驚きと感動を味わった。
 このように、ともするとわたしたちの感覚は、日常慣れ親しんだ座標軸を前提に、それがずっと変わらずに固定されたものであるかのように、いろんなことを判断してしまいがちだ。だが、たとえば外国製の世界地図やスペースシャトルからの映像は、その危うさや、相対化しながら物事や現象を見たり聞いたりすることの重要性を脳裡にしっかりと焼き付けてくれた。
 さて、話を変えると、その座標軸に関して、最高に楽しいシーンは、サッカー観戦のスタジアムで発せられる「ことば」にある。子どもや奥さんと一緒にモンテディオ山形のユニフォームのレプリカを着て、仲むつまじく観戦しているお父さんが、ゲームが白熱化してくるにしたがってハマって行くシーンだ。「おーい、左サイド空いてるぞ、どこに目つけてんだ? サイドチェンジしろよ」「キーパー、キーパー、あまり出過ぎるなよ」。こんな具合にコーチングを始めるのだ。そればかりか、ついに「〇〇は今日は駄目だな、交替だ、□□を出す」と監督になりきってしまうのである。そばで観戦している筆者としても、見当違いなことを嫌味ったらしく言っているわけではないので、なんとなくシンパシーを感じてしまうからこれまた不思議である。観客という自分の位置、テーマに沿っていえば「ことば」を放つ座標軸が解体し、選手・監督にいつしか変身してゲームにのめり込んでしまっているのである。しかし、このようなファンこそ誰にもまして幸せ者なのだ。
 プレイしている選手は、敵も味方も、グラウンドでは同一平面上なので、視界が選手の動きによってさえぎられ、さらに、互いにスピーディーに走り回っていることもあって、とても全体を把握しながらプレイするなどということは至難の技にちがいない。もしそれが出来るとすれば、一握りの天才にだけ持つことを許されている特別の資質なのだろうと、観戦しながらつくづく思うのである。「サイドチェンジしろ!」と威勢良く叫ぶそのお父さんも、筆者も、実は傾斜のあるスタンドの高みから、いうなれば展望台から観戦しているからこそ全体が見えてくるわけである。このように「ことば」にも角度があるということになる。

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