詩人とポエジーと読者

 詩を書く人を詩人という。それは言わずもがなのことだ。だがそれに加えて、わたしは、詩を読む人も詩人なのではないかと思っている。では、詩を書いている人は〈何を〉表現しようとして詩を書いているのだろう。また、詩を読もうとする人は〈何を〉受け取ろうとして詩集のページをめくるのだろう。もちろん十人十色であることは分かり切っている。
 正直に印象を記せば、そのような純粋な〈表現〉にまつわる要素ばかりではない匂いも、詩人の周辺から感じるときがある。詩人という呼称、それとも詩壇というムラ社会の中の通行手形が欲しい人もいるだろう。いやいや、「れっきとした自己表現のための器として詩がある」と最後まで主張される詩人の存在もまだあるだろう。「文学だよ、君!、文学」と言わんばかりに。
 なぜこのようなことを書くのか、正直に種を明かせば、かつて出版した自分の詩集もそうだったように、詩集が書店での販売において、すこぶる思わしくないからだ。「少数の読者しか要らないのだ」とうそぶき強がっても、少数の読者すらおぼつかない状況だ。詩人同士がお互いに献本し合う習慣があることも書店で動かない理由の一つかもしれないが、それにしても、動きが鈍い。それは詩集を手に取ろうとしない人に責任があるわけではない。手にとりたくなる素材ではないと読者に印象を持たれているということが大事なポイントになる。ましてや、これまで詩を読んできた詩人としての読者にも見放されているとしたら深刻だ。
 詩人が、本来持っているポエジーとは少し離れたところで、独善的な言語表現を技術的にもてあそんでいるとしたらどうだろう。あるいは、テーマを普遍化出来ずに、きわめて個人的な表現におちこみ、他者への感性的な通路を断ったまま自足してしまってはいまいか。いろんな角度から考えてみるのだが、詩集が売れない理由の本質には突き当たらない。このもどかしさは、まさしく詩的である。どなたか、明快な謎解きを、ご教示あれ!

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