「八重の桜」寸感−2

軍事クーデター「王政復古」に失敗した岩倉具視・西郷隆盛・大久保利通は、新たに武力倒幕の戦端をひらこうと、旧幕府陣営を挑発し、江戸市中を混乱に陥れる策に出る。そのときの倒幕の必要性を説く口上が「日本をつくり直す為にはいったん更地にする必要がある。そのためには、血も流さなければならない」というものであった。どういう日本を、どうつくり直すのか、いちばん肝心なところがすっかり抜け落ち、単なる繰り言で血を流そうというわけである。5月19日放映の「八重の桜」は、江戸市中を撹乱する浪士たちを捕縛しようとする旧幕府陣営が、浪士の屯する薩摩藩邸に出役する場面や、それにひきつづく鳥羽伏見の戦いのシーンであった。しかし、岩倉具視や西郷隆盛、大久保利通たちが口にする「日本をつくり直す為にはいったん更地にする必要がある。そのためには、血も流さなければならない」という言いようは果たして当時にあってリアリティのある口上だったのだろうか。調べてみると、そのとき既に開明派幕臣たちは「藩閥意識」を乗り越え、あらたな国造りにすでに出帆していたのである。倒幕派の過激浪士たちとは違うクオリティを生き始めていたのだ。逆に、倒幕派はこれといった新しい国家ビジョンを構想してはいなかった状況だったのである。

我が国の近代化に必要なシステム(インフラおよび金融)の礎を築いたのも、薩摩や長州の策士や過激な尊皇攘夷派上がりの明治新政府の役人たちではなく、実は、日米修好通商条約批准書交換のために渡米した幕臣たちが帰国の際に懐深く温め持ち帰った近代化への想念や志によるところが大きかったようである。アメリカで実際に目にして来た高度な産業社会や、男女平等を主とする新たな人間関係、そして共和制の政治。どれもがわが国の未来を指し示す指針のように感じられたことだろう。そのイメージをもって近代化への歩みを進めようとしていたのだ。その推進派の心臓部には小栗忠順ら解明派の人たちがいた。彼らによって当時すでに次のような近代化へのプログラムが着々と実践されていたのである。少しだけその実例を挙げてみると、それは、ほんとうに驚くべきものであった。

横須賀製鉄所(造船所)の構想および建設への着手、郡県制構想(藩閥体制の打破を意味すると同時に、明治新政府による廃藩置県の素案となった)、兵庫商社(日本最初の株式会社)の設立、郵便制度の提唱、築地ホテル(水洗トイレ付)建設、ガス灯設置の提唱、金札発行など金融経済の立て直し、日本初のフランス語学校の設立等……。

ところが日本の近代化は明治新政府になってから開始されて来たかのような印象を私たちは教科書や副読本などで植え付けられ、ずっと持たされて来た。しかし実際は、明治新政府は、幕臣たちが積み重ねて来た諸々の近代化へのプランを模倣し、継承し、応用したに過ぎなかったのである。やはり歴史は勝者によってアレンジされ、都合良く書かれるもののようである。

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