『日本浪漫派批判序説』のこと

文芸批評家・橋川文三氏がかつて著した『日本浪漫派批判序説』が、いまの状況の中で、あらためて意味をもってきているような気がする。ヘイトスピーチといわれる行動が話題になり、閉塞した気分を在日外国人にむけた汚い排外的な言動でぶちまける、そんな暗い心情がふつふつと生起しているからだ。文学史で語られる「日本浪漫派」と、一部の過激なヘイトスピーチ運動を混同してどうするの? まったく別問題でしょう、という声も聞こえてくるが、意外にも通底しているように思えて仕方がないのだ。なにしろかつて、ことばを扱うことを生業としていた明晰なはずの文学者自らが「鬼畜米英」などと絶叫していたのだから。

さらに時代を遡って考えてみると、「何か面白いことはないか、という心情は危険だ」と表現した石川啄木の箴言を持ち出してもよい。同じような問題を内包しているように思えるからだ。ストレートな心情は無媒介的に暴発しやすいということ。その危うさを常に自覚する必要があるということ。そして自分を関係の中で相対化して位置づけ、相手を自分に置き換えて捉え直してみること。それらの作業の大事さを、今だからこそ認識しておく必要を感じるのである。未分化な、論理化の作業を得ていないアプリオリな精神の危険性を文学史上の事例から文学的論文としてまとめ上げたのが橋川文三氏の『日本浪漫派批判序説』であった。筆者にはそう読める。

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