〈土寇〉という表現

〈元禄時代〉から〈幕末〉まで上山を統治した藤井松平氏の、三河時代から、つまり初代藤井松平利長の代からの歴史を調べていたら、見なれない言葉に遭遇した。

豊臣秀吉の命令によって関東への国替えを強いられた徳川家康の移動に伴って、松平一族(徳川の旧姓は松平)は関東へと大移動したわけだが、14松平氏のひとつに数えられる藤井松平氏も、2代・信一(のぶかず)を当主として、布川(現在の茨城県利根町)に移った。そのとき(天正年間)既在していた地元勢力を追い払い自陣を構えている。そのとき抵抗した土着民を〈土寇〉という表現で記している。勝ち上がったものたちが奢り半分に弄する、その土地に先住していた集団に対する「蔑称」なのだろう。時は戦国時代末期、現在の価値観では考えられないが、まだまだ弱肉強食の世であった。

そして討伐を果たす事を「城を落とす」ではなく「城を抜く」とも表現していて、興味深い。しかし調べてみると思っているのとは逆で「城を落とす」は和製漢語で新しく、「史記」に出てくる項羽と劉邦の「四面楚歌」の故事には「城を抜く」とあるのだそうだ。もちろんこの時代の我が国の「城」は「城」とはいっても土塁や柵のたぐい、あるいはそれにいくらか毛が生えたくらいのもので、近世城郭とはまったく違うものだろうけど……。

その後藤井松平氏は、江戸崎(現在の茨城県稲敷郡江戸崎町江戸崎)にて、なかなか旗色を鮮明にしない北の佐竹氏および石田三成陣営に与しようとしている上杉氏の動向に備えていたとのこと。何でもありの戦国時代から石田氏の乱(関ヶ原の戦い:1600年)にかけての遥か昔の話である。

写真は「栗山家文書」(山形県立博物館蔵)のひとつで、栗山判兵衛が藤井松平氏の歩みを年表として詳細にまとめたものの一部。

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