彰義隊士の墓

10月13日、いつでも行けそうに思っていながら今まで果たせずにいた一件、その一つの課題を解消する事ができた。上京の折、台風情報を気にしながら上野公園に立ち寄り、ついに彰義隊士の墓参りをすることができたのである。

彰義隊戦死者の遺体は、新政府軍を憚り放置されたままであったものを、三ノ輪円通寺の仏磨和尚と寛永寺の御用商人の三河屋幸三郎が戦死者供養の官許を受けて上野山で荼毘にふし、一部を円通寺に埋葬したものであるという。

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◉上野戦争の概略

4月11日の江戸城の無血開城が決まり江戸総攻撃は回避された。抗戦派の幕臣や一橋家家臣の渋沢成一郎、天野八郎らは彰義隊を結成。当初本営を本願寺に置いたが、後に上野に移す。旧幕府の恭順派は彰義隊を公認して江戸市内の警護を命ずるなどして懐柔をはかったが、徳川慶喜が水戸へ向かい渋沢らが隊から離れると彰義隊では天野らの強硬派が台頭し、旧新選組の残党(原田左之助が参加していたといわれる)などを加えて徳川家菩提寺である上野の寛永寺(現在の上野公園内東京国立博物館)に集結して、輪王寺公現入道親王(後の北白川宮能久親王)を擁立。

新政府軍は長州藩の大村益次郎が指揮した。大村は海江田信義ら慎重派を制して武力殲滅を主張し、上野を封鎖するため各所に兵を配備してさらに彰義隊の退路を限定する為に神田川や隅田川、中山道や日光街道などの交通を分断した。大村は三方に兵を配備し、根岸方面に敵の退路を残して逃走予定路とした。作戦会議では、西郷隆盛は大村の意見を採用したが、薩摩軍の配置を見て「皆殺しになさる気ですか」と問うと、大村は「そうです」とにべもなく答えたという。
5月15日、新政府軍側から宣戦布告がされ、午前7時頃に正門の黒門口(広小路周辺)や即門の団子坂、背面の谷中門で両軍は衝突した。戦闘は雨天の中行われ、午後5時には戦闘は終結、彰義隊はほぼ全滅し、残党が根岸方面に敗走したと伝えられている。

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