鳥羽・伏見の騒乱

一般論として「鳥羽・伏見の戦い」と表記されるが、私は「鳥羽・伏見の騒乱」と表記すべきだと考えている。次の資料に目を通して頂きたい。

 前に朝延から軽装で私に上京しろということであった。軽装で行くなら残らず行けという勢いで、そこでなお上京しろという命令があったから、それを幸い、先供でござると言って出て来た。ところが関門があって通ることがならぬ。これは上京するようにという勅命だ。朝命によって上京するのだから関門をお開きなさい、いや通すことはならぬ、朝命だからお通しなさいというのだね。そこで押し問答をしているうちに、その談判をしている向こうの隊が後へ引いた。陣屋へ引いてしまうと、後から大砲を撃った。そこで前から潰された。すると左右に籔がある。籔の中へかねて兵がすっかり廻してあった。それで横を撃たれたから、此方の隊が残らず潰れかかった。それで再び隊を整えて出た。こういうわけである。その時の此方の言い分というものは、上京をしろとおっしゃったから上京をするんだ、それをならぬというのは朝命違反だという。向こうの方の言い分は、上京するなら上京するでよいが、甲冑を著て上京するに及ばぬ、それだから撃ったとこういう。それはつまり喧嘩だ。まあそういうような塩梅で、ただ無茶若茶にやったのだ。」  渋沢栄一編『昔夢会筆記』東洋文庫より

ここで「」は徳川慶喜、聞き手は小林床次郎。「鳥羽・伏見の騒乱」を振り返って答えている部分である。前年末の浪士たちによる江戸撹乱工作について朝廷よりその状況を説明せよという命に応じ一行を引き連れ御所に向かったおり騒乱となった経緯についての話である。

これを読む限り、慶喜方にはほとんど戦意がなかったようにみえる。一方、関所を構築して御所への到着を阻止しようとした薩摩藩には、どうしても慶喜一行を通す訳にはいかない切実な理由があった。もし慶喜が小御所に入り、薩摩藩邸焼き討ち事件の一切(江戸で繰り広げられた薩摩藩主導による蛮行の数々)を朝廷の前で詳らかにされたら、松平春嶽や山内容堂ら諸侯会議派が多数を占める小御所会議において薩摩藩は苦しい立場に立たされることが明らかだったからである。もしかしたら薩摩藩こそ「朝敵」の烙印をおされる可能性すらあったのである。そこで薩摩藩側は入念に戦いの準備をすすめていたのである。筆者はこのような一方的な戦争状態であったことから通称「鳥羽・伏見の戦い」という表現はあえて避け、「鳥羽・伏見の騒乱」と表記すべきだと考えているが、いかがであろうか。

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