松平定信とラクスマン、そして幕末

「龍馬伝」がそうだったように、攘夷だ、天誅だと熱い連中が集う松下村塾を舞台とした「花燃ゆ」も然り。どうも幕末は嘉永6年(1853)の「黒船来襲」から始まるかのように擦り込まれているようだ。少し頭を冷やして、ここではペリーが来航する半世紀前に飛んでみたい。

寛政の改革で知られる松平定信という老中がいた時代だ。その彼のもとに誰も経験したことのない難問が立ちはだかる。ロシアの軍人ラクスマンが、日本人漂流民・大黒屋光太夫を連れ、突然、北海道に交易という名の「開国」を求めにやって来たのだ。「鎖国」真っただ中の寛政5年(1793)というから、欧米においてさえ産業革命がようやく本格化しつつあった頃の話だ。

さて、定信はどう対処したのか。まず最初に打った手はガチンコの武力衝突を避ける方策だった。外交とは本来そうあるべきで、なにも偉そうに相手を挑発することではない。「開港している長崎でなら通商も可能」と回答し、ラクスマンに長崎への「通行証」を手渡したのである。ラクスマンは気を良くし、これで交易への道が拓かれると確信、皇帝の指示を仰ぐべくいったん帰国する。ここまでは完璧だった。しかしその後、そう問屋は卸さない事態となる。享和4年(1804)、今度はラクスマンの志を継いだレザノフがロシア皇帝の親書を携え直接長崎に乗り込み、交易の具体化を求めたのである。ところが、ラクスマンに長崎での「通商」を約束した定信は既に老中の座を去り、その間、幕府は対ロシア政策を一変させていたのだ。レザノフを留め置いたあげく、半年後に「通行証」を取り上げてしまうのである。たぶんここまでやられたら黙っている人はいまい。レザノフは激怒し、帰国後、「日本を開国に導くには、武力あるのみ」と進言したというのである。そしてそれが現実のものとなった事件が文化3年(1806)の露寇事件だったのである。

ほとんど知られていないこの事件は、武装したロシア商船が松前藩樺太出張所などを襲撃、事実上幕府が海外列強の脅威を意識し、「開国」へ向けた準備を始めるきっかけとなった事件で、歴史的にみれば「黒船」よりはるかに大きな意味を持つものであった。そのショックからか、幕府は一旦「鎖国」強化策に出る。文政8年(1825)に公布された「異国船打払令」がそれである。しかし世界の動きは加速し、日本の港への立ち寄り要請は年々増加し、幕府は天保13年(1842)「異国船打払令」を廃し、新たに「薪水給与令」を公布することで外国船の日本の港への寄港を認め始めたのである。この流れこそが、「開国」を視野に入れたわが国近代化への真の端緒だったと考えられるのである。

この経験を持つ幕府は、危機管理のノウハウをきちんと蓄積していた。したがって、維新史の「黒船来襲」の場面で屢々描かれているほど無能でも無策でもなかった。慌てふためきパニック状態に陥っていたわけではない。ペリー艦隊の来襲情報をすでにキャッチ、林大学頭(復斉)を交渉人として砲艦(恫喝)外交で攻めて来るペリーに対し、国際法を駆使して理知的に対処出来ていたのである。実際のペリー外交は私たちが刷り込まれてきたような恫喝外交でもなかったが、そのむずかしい内容の外交交渉において林復斉はアメリカに「ノー」と言った最初の日本人であるとさえ言われているのである。

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