「黒船来襲」再見

謀略に謀略を重ねて念願の武力倒幕を果たした後、新政府は自らの「国造り物語」の制作に着手する。いわゆる勝てば官軍の歴史記述に他ならない。私たちの脳裡に未だ真実であるかのように擦り込まれている《浦賀に突如来襲した「黒船」の脅威》も、その一つの成果なのである。

嘉永6年(1853年)に、マシュー・ペリー率いるアメリカ合衆国海軍東インド艦隊の蒸気船2隻を含む艦船4隻が、日本に来航。確かにここまでは誰もが知っている。しかし、次の事を知っている人は稀である。

「ペリー艦隊は当初久里浜に来航したが、当時、久里浜の港は砂浜で黒船が接岸できなかったことから、幕府が江戸湾浦賀(神奈川県横須賀市浦賀)に誘導した」というのだ。下の地図(三浦半島)に記した赤い矢印がその概略である。

久里浜▶浦賀

これは驚きである。事実なら、これまでの黒船伝説とまったく違うのだ。逆に考えてみると、つまり、新政府による歴史記述の意図はこういうことになろうか。「黒船来襲」の場面、ざわめく浦賀周辺、とりわけ慌てふためく江戸城内の様子などは、外国人に対する脅威を極限まで誇張し、自らの攘夷運動(開国派要人や外国人の暗殺テロ)を正当化するために創作した「国造り物語」に不可欠なイメージ=外圧に屈し、開国するしか手だてのなかった幕府の無能ぶりをフレームアップするための作為的なものであった、と。

しかし幕府は、黒船来襲の半世紀も前にあった文化3〜4年(1806〜7)「露寇事件」以降、数々のケーススタディを蓄積し、列強のデータやそれに対する対応のノウハウを得て来ていた。その経験から、黒船来襲時においても幕府の交渉術は沈着冷静、けっして無能なものでもなかったといえる。事実、ペリー黒船艦隊の来襲情報をオランダ商館長クルティウスからの情報として長崎奉行を通じて事前にキャッチ(「別段風説書」)していたし、くわえてこの情報を老中首座の阿部正弘は溜間詰めの譜代大名(※註)に回覧し、早々と対策の検討を開始していたのである。さらに言えば、万全の準備でペリーとの交渉に臨んだ林大学頭(復斎)は「万国公報」等の国際法を武器に、恫喝一辺倒で迫るペリーの外交手法、通称「砲艦外交」を論理的に凌いでみせたのも事実であった。近年、その外交交渉(日米和親条約)でのやり取りを林大学頭(復斎)自らが記録したきわめて貴重な資料『墨夷応接録』(「墨夷」はアメリカのこと)が東京大学史料編纂所で発見され、「開国史」全体の見直しの新資料として注目されているというのがどうも実相のようである。                   (※註)井伊家、会津松平家、水戸松平家、酒井家、小笠原家、奥平松平家、本多家など

私たちはまた、幕藩体制のもと長く続いた封建制を打破し、近代国家を作ったのはあたかも明治新政府であるかのようにも擦り込まれている。だが、大隈重信は「明治政府がやった近代化は、小栗忠順が中心となって実現もしくは構想した事柄を模倣したに過ぎない。日本の近代化への歩みはすでに江戸時代末期に開始されれていた」と書いているし、実際問題として明治以降の政府は戦争(日清・日露・日中・太平洋戦争)以外に興味が無かったかのように急進的に海外へと進出し、300万人以上の犠牲者を出し、ついには国を滅ぼすことになった勢力だったわけである。したがって、新政府が成し遂げたのは日本の《近代化》というよりはむしろ日本の《軍国主義化》だったと言っていいように思えてくるのである。

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