秋田県公文書館

◎8月1日〜2日、思い切って秋田に行って来た。戊辰戦争、とりわけ秋田藩の奥羽列藩同盟離脱(7月)後、奥羽列藩同盟の調印式(5月3日)に勝手に出席したとして責を負わされ、あげくのはてに蟄居を命ぜられ、その後親子ともども難儀な生涯を送ることとなった秋田藩家老戸村十太夫義効(よしかた)の資料を探すためだ。戸村は藩主佐竹義堯(よしたか)の命を受け奥羽列藩同盟結成の調印式に臨んだことを証す資料がなんと昭和になってから発見され、ようやく名誉を回復された秋田藩の重要人物。戸村家は戦国時代からずっと佐竹氏を支えて来た代々家老格の家柄で、幕末期には秋田藩の主席家老(横手城の城代家老)をつとめていた。

膨大な量の「戸村文庫」のリストの中から、慶応4年の閏4月〜5月に絞って、これとおぼしき資料の閲覧をお願いし、30点ほど写真撮影をさせて頂いて来た。その中の1枚が下の写真である。

戸村文庫-山村主税

これは奥羽列藩同盟結成(5月3日)に先立ち、奥羽鎮撫総督府の命令によって組織されていた会津征討並びに庄内征討の軍を解隊(=解兵)する旨の奥羽諸藩連署による届出書(写し)である。期日をみると閏4月20日となっている。まさしく白石城御仮屋で行われた会談でのものだ。この会議に上山藩からは山村主税が出席していることがわかる。

◎最後に、とても親切に応対してくださった秋田県公文書館のスタッフの皆さんにお礼を申し上げます。撮影のための専門室ならびに照明機材等、自由に使用させて頂きました。感謝の気持ちでいっぱいです。

《資料》-奥羽越列藩同盟の脱退-
幕末の戊辰戦争に際し、横手城代である戸村十太夫義効は秋田(久保田)藩の代表として奥羽越列藩同盟結成の調印式に出席した。しかし12代藩主佐竹義堯はいったん奥羽同盟に参加したものの、最終的(7月上旬)に新政府軍側に付く事にしたため、慶応4年(1868)、同盟軍主力部隊である仙台藩・庄内藩等の猛攻撃を受けることとなった。
横手城は佐竹義堯の命によって蟄居させられていた義効に代わって、義効の子戸村大学が城代を務めていた。横手に入っていた新政府軍の沢副総督はあっさりと横手放棄を決めたが、大学および横手城の重臣達はこれに従わず、100名余の兵で籠城した。同盟軍は4000余の軍勢を持って横手城を三方から攻撃し、大学らは必死に防戦したが、敵の攻撃により本丸、続いて二ノ丸も炎上した。大学は切腹しようとしたが家臣らに止められ、搦手より辛くも落ち延び、8月11日、横手城は落城した。それにしても、なぜ、父が藩に裏切られたにもかかわらず必要以上に同盟軍との戦闘に固執したのか理解するのは難しい。むしろ同盟軍傘下に入り、藩主と対峙した方が理に叶っていたようにさえ思えるのだが・・・。

 

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