武力倒幕後の日本

封建制の打破、近代国家の確立。なかなか建設的な印象をもつ言葉であるが、これが一般的に語られる武力倒幕後の国家イメージだ。だが、果たしてほんとうにそうだったのだろうか。半藤一利著『もう一つの「幕末史」』に次のような記述がある。長くなるが紹介しておきたい。

文久2年、江戸は品川御殿山の英国大使館焼き討ちは、高杉晋作の指揮の下、久坂玄瑞、伊藤博文、井上馨、品川弥二郎ら長州藩の12名が実行した。長州藩の名声を高めるための暴挙と言ってもいいでしょう。/このとき彼らは品川の遊郭、土蔵相模に集合したのですが、気持ちが昂るばかりで、手際が悪い。せっかくつくった火薬玉を井上馨の愛娼の部屋へ忘れていったのだそうです。焼き討ちが終わって戻ってきたところ、「肝心の道具をお忘れになるようでは、行く末が案じられてなりません」と愛娼にたしなめられ、ぐうの音も出なかったとか。…略…伊藤博文はその直後(焼き討ちの直後—引用者註)に、国学者だった塙次郎暗殺に手を染めています。…略…政治的意味はゼロに等しい暗殺でしたが、貧しい足軽出身の伊藤にとって、志士の間でハクをつけるために必要だったのでしょうか。〝初代首相〟もやくざの鉄砲玉とたいして変わりなかったようです。/日本はまったくすごい国ですね。

半藤一利は、明治新政府がつくった国家を、品性の無い、そして知性に欠けた国家と断じようとしている感じがする。

封建制の打破についてもかなり怪しい。士・農・工・商の身分制度は確かに名目上は壊されたが、一転して、欧化主義などというもっともらしいスローガンのもと、貴族と平民に明らかに階層分化され、それを固定化すべく明治17年(1884)に華族令が制定され、上流階級を自認する華族は公爵・侯爵・伯爵・子爵・男爵の爵位に分化、まさしく特権階級のエゴ的社会に変貌しただけだったようにみえるのだ。これはなんと昭和22年(1947)の日本国憲法の発布まで続いているのである。明治の元勲だの軍閥だのの肖像写真をみよ! 胸にこれでもかと勲章を飾り立てている浅ましさは、英雄主義・権威主義の何よりの証であろう。

では、近代化についてはどうだったのか。それは謙虚な気持ちで近代史を想い描いてみれば一目瞭然だろう。近代国家がつくりあげられたというより軍事優先の海外拡張主義を実践する帝国主義国家が成立しただけだったのではあるまいか。近代化だけの問題で考えてみれば、幕末期、開明派幕臣たちの手によってかなりの部分の計画が進行していたわけだし…。その過渡期に過激な武力倒幕派によってがむしゃらにすべてが粉砕されてしまったという流れがあった訳である。

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