江戸大火之次第

天保5年(1835)2月7日に起きた江戸の大火(甲午の大火=死者4千人)を、当時江戸詰の任にあった上山藩士門奈藤八が郷里上山の藩士たちにその詳細を知らせた長文の書状。これがとてもいい状態で上山に残っている。どこから出た火がいつどんなふうに燃え広がっていったのか、地名を記して、具体的に報告している内容はまさにリアル。現在、東京にもこの甲午の大火に関する史料はそんなに多くは残っていないようだ。ネット検索でヒットする一次史料は、東京大学附属図書館にある当時の「瓦版」だけのようで、しかもその内容は簡単に伝えているだけであり、どうもこの史料は貴重なもののようである。現在使われている地名も多く読んでみるとけっこう興味が尽きない。

江戸大火之次第-1

その全文を紹介してみたい。

江戸大火之次第

天保五甲午年二月七日昼八時迄北風強、神田佐久間町二丁目ゟ出火、所々江飛火いたし豊嶋丁ゟ西ハ松田丁、冨永丁、冨山丁、紺屋丁三丁目、東側路小屋敷、本白銀丁三丁目、南より通り十軒店、本丁、室町、通町一丁目、弐三四丁目、南伝馬町壱丁目迄、東側ハ 不レ残焼、ぬし丁ゟ本材木丁五丁目迄、南八丁堀壱丁目、続二丁目、三丁目ゟ鉄炮渕不レ残 焼、つくだ嶋迄類焼、東者としま丁、久右衛門丁、馬喰丁、四丁 目西側残り、東側横山丁、米沢丁屋げん堀、矢の倉御 屋敷類焼、酉ノ刻西風強飛火いたし、大橋焼落、川遍 通両国橋はし端迄焼、小佃丁、八丁掘、松平越中守様御屋敷廻り不レ残焼失、火ノ中ニ而越中様御 屋敷計、ふすふりこと不レ候様ニ防留申候、□以がん嶋鉄炮渕御屋敷不レ残類焼、夜丑半刻迄鎮火同九日夕六時頃、鍛治橋外通十五丁目邊ゟ出火、南風強日本橋手前御堀きわ共七日焼残りし分不レ残焼、呉服 橋外一石橋きわ迄焼、丑ノ刻迄鎮火同十日昼九時迄西北ノ風烈敷、大名小路、西御丸、御老中松平伯耆守様御屋敷、長□ゟ出火、東側土手きわ通不レ残、南町奉行屋敷迄焼失、鍛治 橋、数寄屋橋、見附類焼、夫ゟ所々江飛火いたし、火口五ッニ相成、京橋竹丁通不レ残、数寄屋川遍、尾張丁、新橋はし端迄、山城川遍ハ残り申候、夫ゟ東ハ木挽丁、塩留、築地、御浜御殿、大手きわ迄不レ残焼、鉄炮渕辺并日本橋手前、浜丁辺所々七日焼残りし分類 焼、浜丁ハ不レ残与申ニハ無レ之、ぬきぬき焼申候、塩留脇坂 様御屋敷不レ残焼、御隣家仙台様御上屋敷者、鳶之者千両 ニ而受合、尤手負之者十人迄ハ千両之内拾人余ニ相成候ハゝ、抱金被レ下度旨防留申候由、脇坂様御屋敷迄ハ、仙台様御長屋ぬき合せニ候得共、脇坂様御長屋ハ不レ残灰ニ相成、仙台様御長屋ハふすふりも不レ致、元の通ニ而防留申候、のき下よりハ 脇坂様御長屋灰ニ成り居り申候、先年仙台様御類焼之節、表長屋弐百両ニ而留候様ニ、役人中鳶之者申付候処、受合候分計残、其外御殿向迄不レ残御類 焼申候事ニ御座候、右様事も 有レ之候ニ付、此度者千両ニ而不レ残防留候様ニ有レ之候哉受合候を、御殿向勿論、表長屋、横丁長屋、裏御長屋少々焼引むしり留申候、尤め組ニ而受合候由ニ御座候、新橋松坂屋も同様、五百両ニ而鳶之者江御頼候由ニ而、是以防留申候、松板屋向側弐丁目迄焼 候得共、松坂屋之側者壱軒も焼不レ申候、それハそれハ実以恐敷事 御座候、六ヶ年已前、矢張神田 佐久間丁ゟ出火ニ而、大火相成人 死も多有レ之、夫ゟ者此度三日火事方、其節ゟハ大名小路、 伯耆様備前中屋敷、丹波様、林様、和泉様、三河様、能登様、阿波土佐、町奉行屋敷、其外見附弐ヶ所類焼丈多く与申事ニ御座候、此已前大火ニこり居候間、此度ハ 焼死人一向無御座候、天□差申恐敷大火御座候、鎮火者暁 七時迄ニ御座候、右ニ付御大名様も多御類焼、奥羽御大名様ニ者 御半高余之御損毛ニ付、御役 御勤之御大名様も無レ之程ニ而、何年ニも無レ之、廣之木下様 江方角御防、細川御類焼後被仰付候与申事ニ御座候、右大火ニ付御屋敷ニ面も、御近親様方御見舞御品并御出入町人 江板其外見舞之品等被レ下、多分之御損も有レ之、御世見ニ事なかれニ御座候、米値段茂 少々下落いたし候処、右火出ニ而者又々高値ニ相成、諸色共引上候事与、扨々当惑之年柄ニ御座候、上方筋も米値段余程旧□ゟハ高値ニ 相成候旨、大坂表申参候、 此末如何之年柄相成候哉、不安心事共ニ御座候、先者大火御案内迄取廻 早々余者重便可申上   以上

二月十五日   藤 八

金子様   山田様   佐藤様   増戸様   鈴木様

ふかくふかく甚略義候処、左内様ゟ宜御取繕御取成奉願上候、其外御心安御方々様御覧入被レ行候早々下

註:読み下し文中「レ」は返り点で「れ=レ」ではありません。縦組が不可能なので、悪しからず。なお、この火事についてはウィキペディア「江戸の火事」(下記)にもその概略が紹介されているので、覗いてみてほしい。

江戸の火事

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