舟生源右衛門のその後

幕末期の新庄藩家老舟生源右衛門といってもピンとくる人は限られている。奥羽列藩同盟について関心を持っている方か、新庄市内に住む郷土史家諸氏以外、その名を知る人はそう多くはいまい。舟生源右衛門は秋田藩家老戸村十太夫同様、藩主の命をうけ新庄藩家老としてまさしく藩を代表して慶応4年(1868)5月3日白石城における奥羽列藩同盟結成調印式に臨んだ人物。

これ(下記)がその時に連署した重臣たちの名簿で、じつに奥羽25藩に及んでいる。上山藩からは家老渡辺五郎左衛門が参加し、署名している。そしてこの3日後には長岡藩家老河井継之助のリーダーシップのもと北越6藩が合流し、全31藩の大同盟=奥羽越列藩同盟に発展したのである。

伊達陸奥守(仙台)家来 但木土佐/上杉弾正大弼(米沢)家来 竹俣美作/丹羽左京大夫(二本松)家来 丹羽一学/内藤長寿丸(湯長谷)家来 池田彦助/阿部美濃守(棚倉)家来 梅村角兵衛/岩城左京大夫(亀田)家来 大平伊織/相馬因幡守(中村)家来 相馬靱負/水野真次郎(山形)家来 水野三郎右衛門/板倉甲斐守(福島)家来 池田権左衛門/松平山城守(上山)家来 渡辺五郎左衛門/田村右京大夫(一ノ関)家来 佐藤長太夫/生駒大内蔵(矢島)家来 椎川嘉藤太/南部美濃守(盛岡)家来 野々村真澄/秋田萬之助(三春)家来 秋田帯刀/佐竹右京大夫(秋田)家来 戸村十太夫/津軽越中守(弘前)家来 山中兵部/松平大学頭(守山)家来 岡田彦左衛門/戸沢中務太夫(新庄)家来 舟生源右衛門/南部遠江守(八戸)家来 吉岡左膳/安藤理三郎(磐城平)家来 三田八弥/松前志摩守(松前)家来 下国弾正/六郷兵庫頭(本庄)家来 六郷大学/本多能登守(泉)家来 石井武右衛門/立花出雲守(下手渡)家来 屋山外記/織田兵部大輔(天童)家来 永井広記

しかし、慶応4年(1868)7月11日未明の新庄藩の同盟離反のあと、舟生源右衛門は政治の表舞台から忽然と姿を消しているようなのである。どうしても気になっていろいろ文献を見ているのだが、残念ながら現在のところまだその消息を示す資料と出会っていないのである。もしかしたら秋田藩家老戸村十太夫がそうだったように、舟生源右衛門もまた生け贄として葬られてしまったのだろうか、それとも早々に家督を譲って隠居を決め込んでいただけなのか、判然としないのだ。ご存知の方がおられたら是非ご教示頂きたいものである。

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