新政府軍と同盟軍

官軍を自称する薩長軍が、会津戦争で亡くなった会津藩兵の死体を長期間に亘り放置したというエピソードは広く知られているが、会津藩兵のみならず奥羽各地で、戦死者を貶めた例は数限りなくある。山形県内においても然りだ。山形県遊佐町吹浦字三崎に「三崎峠戊辰古戦場」がある。
秋田県と山形県の県境で、官軍(新政府軍)と「庄内藩」の軍の最後の熾烈な戦いとなった場所だ。
慶應4年(1868)7月13日~16日、庄内藩軍を主力とした同盟軍と亀田藩などの部隊からなる新政府軍とが三崎峠にて激突した。
この三崎峠で戦死した同盟軍兵士(庄内兵)の遺体は、見せしめのために引き取ることを許されず放置されたため、三崎一帯には無数の白骨が転がるという無惨な状態が長く続いたという。戊辰戦争から50年近く経った大正3年(1914)、ようやく遺骨拾集が許されたのである。このように薩摩・長州勢力(明治新政府)は徹底的に奥羽諸藩の人々を侮蔑し続けたのだ。

一方、謂われなく賊軍とされた庄内藩が、官軍を自称する新政府軍の戦死者を手篤く祀った例は多い。

▶官軍についた秋田藩と庄内藩の「横手の戦」では、庄内藩は秋田藩戦死者を横手市の竜昌院に丁寧に埋葬し墓標を建立している。これが、敗者にも優しく手を差し伸べる東北人の自然な振る舞いだ。
庄内藩は破竹の勢いで総督府軍と秋田軍を追撃し、ほどなく横手城を攻略した。庄内の指揮官は松平甚三郎と酒井吉之丞、横手の城将は秋田の家老戸村十太夫の子大学、わずか20歳であった。父十太夫は奥羽列藩同盟に参画した責を負わされ秋田において謹慎の身にあった。そのため若手ながら大学が城を守っていたのだ。城兵は一握りにすぎない。沢為量率いる鎮撫軍は横手城放棄の方針を出して逃亡。そんな状況の中、庄内軍から、しきりに流血を避け投降するよう勧告された。大学はこれを退けて大軍を迎えたが、わずか一日で落城した。翌日、庄内軍は城のあちこちに横たわる死体を集め、城北の竜昌院に運んで葬り、僧を呼んで読経、供養し、「佐竹家名臣戸村氏志士墓」と書いて、さらに標柱を建てたのち前線に立ち去った。標柱の背面には、「奥羽義軍葬埋礼拝感泣して過ぐ。惜しいかな、この人々の氏名を知らず。もしこれを知る者あらば、明らかに追記せんことを乞い願う」と書きつけた。

▶山形県鶴岡市清川(立川町大字清川)に戦死した長州藩兵の「清川官軍の墓」がある。地元民が弔ってきたが、昭和43年には長州藩出身の岸信介元首相によって顕彰碑が建てられた。

▶山形県新庄市には「戊辰戦争官軍之墓」がある。明治元年7月13日舟形口合戦で戦死した官軍4名の墓所だ。

▶酒田市の光丘神社の官軍墓地
 本殿裏手、境内の外に官軍墓地がある。戊辰戦争後、庄内地方に駐屯した約4千名の内、佐賀藩等1千余名が酒田に駐屯したが、約一年の駐屯中に8名の病没者を出した。日枝神社の厚意によりこの地に墓を建てている。

この、戦死者に対する新政府軍と同盟軍とりわけ庄内軍の違いは、いったい何を意味しているのだろうか。

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