いわずもがな、人間は変化する。

《恭順を拒んだ額兵隊隊長星恂太郎》

幕末期の仙台藩最精鋭部隊であった額兵隊の隊員たちは、赤と黒のリバーシブルで粋な軍服を身にまとっていたと伝えられている。星恂太郎というアニメの世界から飛び出してきたかのような名前の人物が、その部隊の隊長であった。星は天保11年(1840)、仙台東照宮六供の一戸・星道栄の長男として生まれている。頭角を顕したときは仙台藩内きっての過激な攘夷論者で、当時開国論者の双璧であった大槻磐渓(儒者・仙台藩校養賢堂頭取)と但木土佐(仙台藩家老)の暗殺を計画、実際に大槻を襲撃し失敗している。次に但木の屋敷に押し込むが、但木は「余を以って売国奴となすと憂国の情、真に愛すべし。然れどもおしいかな。子(し)は仙台の小天地に棲息し未だ世界の大勢に暗く、眼孔小にして識見陋(ろう)なり。未だ真成の憂国の士と称するに足らず。子、今より知識を世界に求め、真の憂国者たれ」と逆に若き星に西洋の事情=国力の違いを諭し、攘夷決行の愚かさを教えたとされている。そのことによって恂太郎は無知すぎた自分に気づき、視野を広めようと決意したという。

元治元年(1864)、恂太郎は海外事情を知りたい一心で脱藩、江戸へ出てさらに渡米を試みるが失敗している。無一文になった恂太郎は仙台藩士・富田鉄之助に救われる。富田は但木土佐から星恂太郎という男は見込みがあるので助けるようにと大金を渡されていたというのである。恂太郎はその後、幕臣の川勝広道や下曽根信行に西洋砲術や銃隊編成調練を学び、各藩の兵備などを調べて歩く。その折、横浜でアメリカ人ヴァン・リードに出会い、昼は彼の経営する銃砲店で働き、夜は兵学砲術の研究に打ち込んだ。

その後、戊辰戦争が始まると上野で彰義隊と新政府軍が戦火を交える。恂太郎は彰義隊に加わり戦おうとするが仙台藩士松倉良輔の説得で仙台へ帰る。帰藩した恂太郎は慶応4年(1868)、西洋流銃術指南役として大番士に取り立てられ、仙台藩近代的洋式銃隊である額兵隊の調練を任される。奥羽越列藩同盟の盟主として仙台藩も新政府軍と戦っていたが、額兵隊に出撃命令が出されているにも関わらず恂太郎は是を拒み続けていた。準備不足がその最大の理由であった。作戦行動を完遂するためにはその体制の確立がなによりも肝要である事を星は熟知していたからである。そして弾薬製造など戦闘態勢が整うや、いよいよ出陣と相成る。

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恂太郎は、約千名の藩兵(額兵隊)を率いて出兵するも、無念にも仙台藩主伊達慶邦は9月12日恭順降伏を表明してしまう。しかし、星恂太郎は藩の方針に不満を持つ額兵隊隊士250名を率いて脱走し、藩主・伊達慶邦の説得をも振り切って旧幕府軍の榎本艦隊に合流して蝦夷地へ渡ることになるのである。

このとき恂太郎は次のような言葉を吐いている。「西軍(新政府軍—引用者註)は薩長土肥の私兵だ。一度の合戦もしないで降伏するとは屈辱の至り、我々額兵隊は徹底抗戦して武運の誉れを享受しよう」(古賀志郎著『大鳥圭介』彩流社刊より)

◎上写真は榴ヶ岡天満宮(仙台市)境内に建つ「額兵隊 見國隊 戦死弔魂碑」2016年4月2日  筆者撮影

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