福島に世良修蔵を訪ねて

6月5日(日)、かねてより予定していた戊辰戦跡巡りを断行。今回は福島市内、奥羽鎭撫総督府下参謀・世良修蔵関連の地を巡ること。奥羽諸藩の和平に向けた会津救済のための嘆願書を無慈悲にも拒絶し、戦争へと舵を切らせた傲慢なイメージがつきまとう男=長州藩士世良修蔵。最初に向ったのは福島稲荷境内にある「世良修蔵霊神碑」(別名「世良修蔵の官修墳墓」)。これはもちろん新政府が建立した顕彰碑で、お墓ではない。

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さて、今回の目当ては言うまでもなく鎭撫軍の会津征討準備のために参謀である世良修蔵が投宿し、仙台藩士・姉歯武之進等に襲撃され致命傷を負ったとされる「金沢屋」。そして襲撃された後に引き立てられ尋問された「客自軒」(世良襲撃の指揮官であった仙台藩士瀬上主膳の定宿)。さらに、その旅籠から連行され斬首されることになる「阿武隈川の川辺」。

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ところが驚いた事に、新政府が建立した「世良修蔵霊神碑」以外、もはや跡形も無く、表示板や案内板のひとつも設置されていないという現実であった。河井継之助を長岡に訪ねたときとは正反対である。 そこにどういう理由が隠されているのか知る由もないが、ちょっと寂しい気持ちになった。せめてもの救いは「客自軒」が別の場所= 民家園に移築され残っているということであった。今回は行けなかったが別の機会にぜひ訪れてみたい。

ただし、思いもよらぬ収穫もあった。奥羽越列藩同盟の公議府は白石城(別名=益岡城)、軍事局は福島というところまでは知っていたが、横着にも福島のどこに置かれたのか調べた事がなかった。今回の散策でそれが世良修蔵が斬首された阿武隈川のすぐ近くにある曹洞宗の寺院「長楽寺」であることが分った。しかも、同盟軍の降伏の後、その寺は新政府軍の本陣になったという。実際に現地を訪れてみるといろんなことが見えてくるものである。そしてその「長楽寺」には世良修蔵の居場所を仙台藩士たちにリークした福島藩の目明かし浅草(屋)宇一郎の碑や、仙台藩士細谷十太夫が組織した衝撃隊、新政府軍も怖れた通称「からす組」の碑などもあった。
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いろいろ、歴史の伝承について考えさせられる散策の一日であった。なによりお天道様に守られ、好天であったことに感謝しなければ……!

以前、白石にある世良の墓地を訪れたときのブログも併読頂けたら嬉しいです。https://syoshi-sai.com/2012/10/10/映画「賊にはあらず」/世良修蔵の人となりについての小感も是非。 https://syoshi-sai.com/2015/05/05/歴史は人によってつくられる/

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