「明治維新と廃仏毀釈」、無事終了。

昨日(7月25日午前6時半〜7時半)、湯出山浄光寺(上山市)での「明治維新と廃仏毀釈」の講話、無事終了致しました。
遠く大石田から来て下さった方もおられ、恐縮至極でした。その大石田の織江尚史様(浄土真宗・浄栄寺のご住職)より、その日のうちに頂戴しましたコメントを、転載させて頂きます。

《岩井さん…………今朝はありがとうございました。初めて訪れた浄光寺さんで、大事な学びの種をいただきました。国家神道と宗教の問題は、浄土真宗大谷派(お東)においても中心となっている課題のひとつです。国家権力によって管理・監視され仏法から目を背けてきた教団の歴史があり、それは現在も変わっていません。廃仏毀釈の大波がかぶさってきたとき、我が宗門が、あるいは自分の生まれた寺がどのように波を受け止め、やり過ごし、かろうじて乗り越えてきたか。そのことは普段あまり考えることがなく、しかし胸の奥に喉に刺さった魚の骨のように引っかかっている問題でした。言ってしまえば親鸞聖人が世を去ってその子孫によって墓が建立されやがて真宗教団が成立して以降、宗門は常に権力に媚びへつらい、お伺いをたててすがることによってその教団を維持し続けてきたのです。朝廷、幕府、明治政府、権力の側が変わっても力におもねざるを得ない教団の体質は変わっていないのです。一方で、それは宗祖親鸞に対する背信裏切りではないかという自戒の意識も残ってはおり、それが同朋会運動という昭和30年代の信仰運動を生み出すことになりました。廃仏毀釈の歴史を知ることは、当時の人々がいかに国家権力と向き合い飲み込まれ、また対峙してきたかを知ることなんですね。やや話がずれますが、僕の寺、浄栄寺は大石田町の横山にある小さな真宗寺院です。すぐ近くに旧横山小学校があります。現在は廃校になり児童センターになっています。横山小学校は明治5年くらいの創立で、当時の浄栄寺の住職と近くの熊野神社の宮司が共同の創立者になっています。明治5年といえば、今朝の岩井さんのお話から聞きますと仏教を廃し国家神道を尊ぶ潮流が横山にも届いた頃かその直前に違いないのでしょうか。そのときの住職は、寺を存続させるために思いをめぐらし、教育機関としての寺子屋を熊野神社の宮司と共に興すことで、寺院の必要性を訴えようとしたのだろうか。などと様々な想像をしました。また学習してみようと思います。ありがとうございました。浄光寺のご住職にもよろしくお伝えください。》

20150329_1607851

織江尚史様への私信

いや〜、わざわざ大石田から来て下さるとは、想像もしておりませんでした。ほんとうにありがとうございました。終了後も、仕事の関係で、すぐ戻って来てしまい、礼を失してしまったと反省しております。どうかお許しください。「明治維新史の再構築」に挑んでみたいというとてつもないテーマを掲げてしまっている小生ですが、勉強もすべてこれからで、皆様にいろいろご教示を賜りながら、一歩一歩歩んで行こうと心に決めているところです。今後ともどうぞよろしくお願い申し上げます。

go top