検証《戦乱、ついに奥羽へ》の流れ その2

◎奥羽諸藩の動向

会津救済にまつわる基本的な考え方(例:米沢藩の建白書)
《慶応4年3月下旬から4月中旬》「徳川慶喜が寛永寺に謹慎し、会津容保も国許で悔悟謹慎している今、皇意はすでに遠近に輝き朝憲凛然として行なわれている。願わくばこの際海の度量を以て不殺の聖徳垂れ、共にこれを寛典に処し、その宗社を存続させ、速やかに大旆を返さんことを」というもの。

米沢藩が周到だったのは、この建白書を朝廷に上奏を試みると共に、南部・津軽・秋田・山形・上山・二本松・福島・相馬の諸藩にも通達していた事である。これによって諸藩に「東征の兵を諫止し干戈を動かさずに鎮静させる」という意識の共有化が図られ、後の緩やかな会津救済のための連携へと変化していく精神的な土台となったと考えられるのである。

庄内藩征討のこと、戊辰戦争は会津藩征討だけではなかった。
奥羽で最初の砲声は新政府軍による庄内藩への攻撃であった。
諸藩に派兵の勅命が下される。
庄内征討軍/沢為量・大山格之助
先導役 天童藩中老・吉田大八 薩摩兵100名、長州兵150名
4月14日朝、仙台岩沼を出発→17日山形入り→上山
4月18日  上山藩領内見ル目原にて閲兵・出陣式
(長州・薩摩・山形・天童・上山)
上山藩以外の兵は19日朝進発、上山藩兵は21日進発。
翌22日天童にて合流し、遠征軍に従って北進。尾花沢泊。
23日夕刻新庄に着陣。
奥羽で初めての戦火は、4月24日早朝、清川口にて対峙する庄内藩へ向けた薩長軍の発砲。
4月10日 「朝敵」の烙印をおされた会津・庄内両藩は「会庄二藩は断然その存亡を共にして君側の奸を掃い、以て維新の鴻業を扶翼せん」として「会庄同盟」を結ぶ。
庄内藩が「朝敵」とされた理由は公式には定かではない。(薩摩藩邸焼き討ち事件との関連が濃厚)

4月18日 仙台藩、藩境の土湯峠まで軍を進め、会津軍と対峙したまま睨み合いを続ける。一部情報の乱れに伴う突発的な発砲などもあったが、仙台藩にはもともと積極的に会津藩と戦火を交える理由も意志もなかった。
4月25日  会津藩主松平容保の親書を携え「降伏使節」が、米沢藩重臣木滑要人らの案内で、仙台藩本陣(白石)を訪れるとの知らせが仙台藩に入る。

仙台藩軍事参政真田喜平太は奉行但木土佐に「敵国との応対は陣門ですべきもので、もし彼等を白石城内にいれると、後日いかなる嫌疑をうけるやも知れない。使節を国境に止めておくべきである」と進言。これをうけて但木土佐は交渉を羽州街道七ヶ宿の関宿にある本陣渡辺丁七邸で行なう事を決定したのである。

4月26日 会津藩士を伴わず米沢藩木滑要人、片山仁一郎が白石城に登城、但木土佐・坂英力と会見し、会津松平容保が米沢藩に託した「会津伏罪嘆願」を示し、総督府への周旋を願い出る。

4月29日 秘密裡に関宿本陣に諸藩家老級重臣たちが集結。通称関宿会談である。主な顔ぶれは次のようであった。
仙台藩  坂英力・但木土佐
米沢藩  竹股美作・木滑要人
二本松藩 丹羽一学・丹羽新十郎
相馬藩  羽根田源右衛門・志賀治衛門
会津藩  梶原平馬・伊東左太夫
ここでは「会津伏罪嘆願」の内容について議論された。

会津藩家老梶原平馬はこの協議をうけて、会津に戻り、再度吟味した内容の「嘆願書」を持参すると約束。
閏4月2日 奥羽鎮撫総督府より仙台藩に「(会津は)朝敵、天地入れるべからざる罪人ども」の文言を含む勅書が届く。
閏4月11日 仙台藩、米沢藩は、会津救済について奥羽諸藩への呼びかけを行ない、第1回拡大会議を白石城下片倉小十郎の重臣佐藤雄記邸で開催することとなる。
これが通称白石列藩会議にほかならない。全14藩が参加したと記録に残っている。

そこで「会津謝罪嘆願書」の吟味と総督府への提出を各藩の合意署名によって決し、翌12日、仙台伊達慶邦、米沢上杉斉憲両藩主は、岩沼に宿陣していた九条道孝総督を訪ね、連名で「会津藩寛典処分嘆願書」「諸藩重臣副嘆願書」、併せて会津藩家老署名の「嘆願書」の3種の嘆願書を提出したのである。

「会津藩寛典処分嘆願書」など3種の嘆願書を提出するにあたり、仙台藩主伊達慶邦は、口頭で会津領の削減、首謀者の首級を差し出した上での開城という条件等を示した。
そして、それが認められない場合、

「強テ御討伐ニ相成候テハ会津ノミナラズ、奥羽ノ人民塗炭ノ苦シミニ陥リ、果ハ乱民蜂起、鎮静謝罪イヨイヨ御多端ト相成リ申スベク民情篤クト御了察ヲ仰ギ候」

とも述べ、「寛大ノ御処置」を願い出ている。

この願い出に関し九条道孝総督は、「受けとるが、回答は4、5日待ってほしい」ということで会談は終わったのである。
九条道孝総督を始めとする公卿(くぎょう)からは、

「一旦会津藩から提出された嘆願書を京都の太政官に報告して、指示を仰いだほうが良いのではないか」

という声すらあがったが、逆に、下参謀の世良修蔵はこれを完全に拒絶。加えて新庄で庄内藩征討戦を指揮していた大山格之助に密書を送ろうとして、これが露見。
世良修蔵の書簡にあった「奥羽皆敵」という表現が奥羽諸藩の心情を逆撫でし、新政府軍との対立を決定的なものとしてしまう。

世良修蔵の暗殺へ
奥羽諸藩は総督府のやり方に疑念を深め、朝廷へ上奏すべく「建白書」を議定。
奥羽列藩同盟への推移
会津征討軍・庄内征討軍の解兵
和平交渉=会津救済に関する交渉の決裂、そして世良修蔵の暗殺という大事をうけ、閏4月20日~23日、白石城御仮屋で会合を開き、新政府軍傘下の庄内藩征討軍、会津藩征討軍の即時解兵を決定。

列藩攻守同盟締結へと発展することとなる。奥羽諸藩は新政府軍と対決する構図=軍事同盟へと一転。その流れは、5月3日、奥羽25藩による奥羽列藩盟約書(仙台盟約書)の調印へと至り、これが通称「奥羽列藩同盟」と呼ばれる同盟の結成にほかならないのである。

奥羽越列藩同盟の結成
さらに5月6日、北越6藩が加盟、31藩の結束をもって新政府軍との全面戦争へと突入していくことになる。

白石列藩会議から参加した14藩
仙台藩/米沢藩/二本松藩/湯長谷(ゆながや)藩/棚倉藩/亀田藩/相馬中村藩/山形藩/福島藩/上山藩/一関藩/矢島藩/盛岡藩(南部藩)/三春藩
新たに奥羽同盟に参加した11藩
久保田藩(秋田藩)/弘前藩/守山藩/新庄藩/八戸藩/磐城平藩/松前藩/本荘藩/泉藩/下手渡藩/天童藩
北越6藩
長岡藩/新発田藩/村上藩/村松藩/三根山藩/黒川藩
その他 請西藩

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