斗南・野辺地・函館をめぐる(1)

%e6%96%97%e5%8d%97%e8%97%a9%e8%a8%98%e5%bf%b5%e8%a6%b3%e5%85%89%e6%9d%91

今年最後になるだろう「戊辰戦跡巡り気まま旅」は、斗南・野辺地・函館方面と決め、11月3日・4日・5日の3日間駆け足で廻って来た。事前の天気予報では函館方面は《雪》とのことだったが、この機会を逃せば来春まで不可能と判断し、スタッドレスタイヤを車のトランクに詰め込んでの旅となった。3日早朝、ひたすら東北自動車道を北上、三沢市にある斗南藩関連の「先人記念館」を目指す。すでに昼を過ぎようやく最初の目的地に到着。道の駅「みさわ」斗南藩記念観光村にある食堂で軽く腹ごしらえをし、敷地内の「先人記念館」へ。すると《雪》どころではないもっとショッキングな現実が待っていた。なんと、改修工事のため「休館」の文字がいきなり飛び込んで来たのである。嘘だろう!つい先日ホームページで下調べをした際にもそんな告知はどこにも載っていなかった。どうしても納得がいかず、館内にいる職員に「山形県上山市というところから来た者です、どうしても展示を拝観したいのですが無理でしょうか?」と粘ってみた。するとなにやら上司とことばを交わしたあと、「こちら常設展示のエリアだけでよろしかったら大丈夫ですので、どうぞご覧ください…」と入館を許してくださった。間一髪であった。しばらく展示を眺めていると不思議な記述が目に入った。「嘉永3年、出羽庄内の温海にて会津藩士が戦死」という行(くだり)があるではないか。馬の牧畜によって地域おこしを成し遂げた旧会津藩士廣澤安任という人物の系図・略歴にかかわる記事中にあったものである。嘉永3年(1850)といえばペリーが来航するより前で、戊辰戦争(慶応4年:1868)の18年も前のこと。そんなタイミングで温海でなにか会津藩士が関わった戦争があったのだろうか不思議に思い、学芸員の方に尋ねてみた。しかし、学芸員の方も資料不足でそれ以上のことが分からないままになっているという。新しい資料で詳細が判明したら連絡してくださるということであった。

%e4%bc%9a%e6%b4%a5%e8%97%a9%e5%ae%b6%e8%a8%93今回訪れた「先人記念館」には、戊辰戦争後の明治2年(1869)新政府からの強権的な転封命令によって会津の地を追われ、当地に入植、開墾によって斗南藩3万石の立藩を許された旧会津藩士たちの艱難辛苦の歩み、ならびに近代化への歴史資料が収蔵されている。加えて松平容保の継嗣容大(かたはる)の書や会津藩の家訓、それに明治新政府の要人たちとの交流の様々な資料も数多く展示されている。なかでも伊藤博文、大久保利通らの書状が展示スペース全体のなかでかなりのウエイトを占めている。この予想だにしなかった事実に正直驚いた。薩摩・長州両藩の謀略によって「朝敵」の汚名を着せられたあげく、北方の辺地へと追いやられた旧会津藩士たちの悲鳴がまったくといっていいほど聞こえてこないのだ。幕末期の悪夢をあえて断ち切ろうとしているかのような展示意図や思想を暗に示されている印象すらあった。そこ(怨念)に拘泥していては一歩も先に進めなかったであろう当時の会津人の苦悩をアイロニカルに表現しようとしているのだろうかとさえ思えた。

さて、常設展示コーナーだけの拝観だったが、学芸員との会話も楽しめたし、次の野辺地へと急ぐことにした。ただし、野辺地については【さて、何処にしよう?】(クリックでリンクに飛びます)をお読みいただくとして、ここでは写真だけ掲載しておくことにしたい。
%e9%87%8e%e8%be%ba%e5%9c%b0-%e5%a2%93%e7%a2%91%e9%87%8e%e8%be%ba%e5%9c%b0%e6%88%a6%e4%ba%89%e6%88%a6%e6%b3%81%e5%9b%b3
だいぶ陽も傾き、初日の旅を終え、青森市内のホテルに到着したのは午後6時を過ぎていた。季節のせいもあって、もうすっかり暗闇が街を支配している感じだった。

go top