静寛院宮と天璋院、そして戊辰戦争

◉静寛院宮(和宮)

静寛院宮とは孝明天皇の妹和宮のこと。公武合体を象徴するかの如く徳川家に輿入りし、夫である将軍家茂の死後つまり剃髪後に使った呼称がそれであった。下に引用した資料は鳥羽・伏見の騒乱後、徳川慶喜に対する寛大な処置を求めて出された静寛院宮の嘆願書に対し、東征大総督府参謀である西郷隆盛がみずからの所感を大久保利通に宛ててしたためた書状の一部だが、そこには冷酷なことばが書き留められていた。それは〈尊皇〉を旗印にしていた彼らの思想信条が実は〈尊皇〉のかけらも無いものであったことを示す本心が表現されていて興味深い。つまりこうだ。

 「慶喜退隠の嘆願、甚だ以て不届千萬、是非切腹までには参申さず候ては相済まず…略…然れば静寛院宮と申しても、矢張賊の一味と成りて…略」

       (『大西郷全集』所収「大久保利通宛書状」より)

何をかいわんやである。

◉天璋院(篤姫)は奥羽越列藩との連携を望んでいた!

天璋院が敵の中枢である東征大総督府参謀の任にあった同郷の西郷隆盛に助けを求めていたことはよく知られている。天璋院とは島津斉彬の娘(養女)篤姫のことだが、その求めに対し西郷隆盛は「如何様にも御骨折り致します」と語りながら、しかし天璋院によると実際は「其侭召に応ぜず逃げ去り候御次第、言語断長」という有様だったようだ。
そこで天璋院は失望し、怒りを覚え、上野戦争が終結した後、…中略…奥羽越列藩同盟の中軸を為す仙台藩主伊達慶邦へ宛てて書状を送っている。

 「五月十五日、薩長其外諸家之人数、上野東叡山へ理不尽に大小砲打ちかけ、勅額もこれ有り候中堂山門を初め、其外諸堂社本坊に至る迄焼払い…略…御宝物其外重き御品々を掠め取り候次第、実々以て恐れ入り候次第、朝敵は申す迄にこれなく、神敵、仏敵、盗賊共の振舞と申すべし…略…就中、島津家は以之外なる風聞もこれ有り」

 「当節承り候えば、奥羽方は申し合わせ御尽力のよし、誠に誠に御頼母しき御事にて深く感じ入り候…中略…勿論、会津家へも其御方と力を合せ候よう頼み遣し候間、宜しく御相談之上、外忠義之諸侯を相催し、悪逆之者とも御退治下され…略」         

(参考文献:原田伊織著『大西郷という虚像』より)

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