江戸幕府の海外情報収集

「風説書」&「別段風説書」 〜オランダからの世界動向、江戸で世界を知る〜

幕府の海外情報収集能力は《攘夷派》が思いもつかない程、高度で、その仕事ぶりは徹底していたようだ。

◎風説書提出の経緯

「オランダ風説書」は江戸時代を通して幕府が世界情勢を知るための重要な情報源だった。江戸時代初期、幕府は当時日本と交易があったスペインとポルトガルをキリスト教布教問題で追い出した。後継に欧米の中では唯一オランダに貿易の権利を与え、その代わりとして西洋諸国の様子を報告させる「オランダ風説書」の提出を義務付けた。これは、三代将軍家光の末期 1650 年頃から始まったといわれる。

実際の記述を少し紹介してみると以下のようなものであった。

◎文政十亥年風説書 1827年 視聴草第二集之六

当年来日のオランダ船二艘6月8日バタビアを同時に出帆し、海上異状無く本日一艘長崎に到着した後船は当初8日程一緒で其後見失なったが間もなく到着する事と思われる。この二艘以外に仲間船はない。昨年長崎から帰帆した船二艘は12月24日海上異常なくバタビアに到着した。

注:オランダ風説書日付は西暦を旧暦に変換してありバタビア出発6月8日は1827 年7月1日で長崎到着は閏6月3日なので1827年7月26日となる。

帰国の出発日不明だが、バタビア帰着1828年2月9日となる。東インド付近は静かであるがヨーロッパの諸国のフランス、イギリス、スペインの間で戦争が起るという情報もあるが今のところ明確でない。

暹羅(タイ)王が交易の為バタビアに使いをよこす。

ペルシャ国よりロシア国に攻込んだがロシアが大勝利を得て、ペルシャ軍は敗走した。トルコ国の都府コンスタンチノープルで軍隊内で反乱があったが、速やかに国王が鎮定した。今回航海中中国船は見掛けなかった。以上の外変った情報はない。

商館長 ヘルマン フェリックス メイラン

上記本日入港のオランダ船長が語るのを商館長が聞き報告したので和訳申上げる 文政10年閏6月3日(1827年7月26日) 通詞目付 大小通詞

◎庚子七月朔日阿蘭陀船入津風説書 天保 11年1840年

当年来日のオランダ船一艘6月9日バタビアを出帆し、海上事故なく本日〔7月1日)到着致した。この一艘以外の仲間船はない昨年長崎を立った船は11月10日海上事故なくバタビアに到着した。ロシヤ皇太子アレクサンドル・ニコライはオランダを通過し、その際国王に面会した。イギリス国王の娘ヴィクトリアを女王に推戴した。オランダ国皇太子はウィンデンブルグ国の女王ソフィアと婚約した。トルコ皇帝死去、皇太子が即位した。デンマークの王死去、皇太子が即位した。イギリス女王はザクセンコバーグの王子を婿に取る。オランダ領東インド政庁の総督エーレンスが病死したのでホーゲントルプが後継した。

中国ではイギリス人に対し無理非道ありとの事でイギリスでは軍隊を中国に発し、イギリスは勿論、ケープタウン及び英領インドで兵を整え中国に報復を準備している

注:アヘン戦争の勃発前夜。

上記以外インド付近で変った事はない。台湾辺で中国船を七艘見かけたが通商の船では無いと思われる。又ヨーロッパの船二艘見かけたがイギリスの船ではないかと思われる。

上記はオランダ船船長及び事務長の口述を報告 商館長 エデュアルト グランディソン上記和訳
天保11年7月1日〔1840年7月29日〕

◎嘉永五年壬子別段風説書(抄)1852年8月頃到着

最近の情報では、アメリカ合衆国より艦隊を派遣し、交易を行うために、日本に渡来すると云う事である。此件に付き以下の事を聞いているが、それは合衆国から日本の皇帝へ使節を送って米国大統領の親書を提出し、又日本 の漂流民を連れて来ると云う事である。此使節は合衆国との民間貿易の為、日本国内の1-2の港の利用許可と、又適当な石炭貯蔵の港を用意してカリホルニアと中国の間を往来する蒸気船の用に立つ事を願いたい由である。

このように、限られた例をみても、想像以上に細部にわたっていることに驚きを禁じ得ない。(文中の「バタビア」とは、インドネシアの首都ジャカルタのオランダ植民地時代の名称:引用者註)

 

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