赤松小三郎の画期的な政体論

ジャーナリストの林克明氏は次のように書いている。                          「 近代日本の原点は明治維新だった。維新の志士たちが封建的で遅れた江戸幕府を倒し、新しい日本が生まれた。もしあのとき武力で徳川体制を倒していなければ、日本は列強の植民地になっていたかもしれない…。“ 明治維新万歳!”  かなり多くの人がそう思っていることだろう。筆者自身がつい最近まで、「明治維新は正義」という薩長史観に少なからぬ影響を受けていた。しかし180度逆に歴史を見ると、目の前の風景がガラリと変わってくる。実は、江戸時代末期の慶応年間には、主要な改革者たちの間では、議会制民主主義に基づいて平和的に新しい日本をつくる構想が主流となっていた。薩摩や長州が武力とテロでその構想をつぶし、祭政一致・天皇を現人神にする専制国家をつくったのが明治維新だ」と。

太文字で書き写させてもらった部分の「慶応年間」の「主要な改革者」の一人として林氏は上田藩士・赤松小三郎(あかまつこさぶろう)の名をあげている。では、赤松の構想(綱領)とはいかなるものであったのか、残念ながら林氏のコラムでは紹介されていないので、赤松が慶応3年(1867)5月17日前福井藩主・松平春嶽に提出したとされている「御改正之一二端奉申上候口上書」全文を、下記に引用掲載しておくこととする。あたかも幕末期に構想された唯一の政体論であるかの如く語られる坂本龍馬の「新政府綱領八策」は、慶応3年(1867)11月。(念のため付記しておけば龍馬のもう一つの提言と称されてきた「船中八策」は、明治に入ってから何者かによって創作されたもので、現物は存在していない)。公にされた時期(当然、書かれたのはそれより早いわけだが)について、赤松の綱領の方が龍馬の「新政府綱領八策」より6ヶ月程早いことになる。そればかりか内容の先進性においても然り、どう考えても赤松に軍杯が上がる。ところが武力倒幕派は慶応3年9月3日、普通選挙による議会政治を提唱していた赤松小三郎を暗殺し、後の「明治維新史」からも抹殺してしまったのである。がむしゃらに武力倒幕路線を突き進もうとしていた勢力にとって赤松の思想は都合の悪い邪魔な存在となっていたからである。それに加え、赤松は薩摩藩との関わりが深かったことで、赤松の帰国(故郷上田への)に際し、薩摩藩内の秘密が露見してしまうことを恐れたことも一因であったとも言われている。暗殺の実行犯は中村半次郎(桐野利秋)であった。ご存知の通り「人斬り半次郎」の異名を持つ剣士で、西郷隆盛を師と仰いでいた人物である。また、一方の「祭政一致・天皇を現人神にする専制国家をつくった」流れの起点は、王政復古の軍事クーデーターとほぼ機を一にして発令された「神仏分離令」である。そしてそれに端を発した愚直きわまりない廃仏毀釈運動であった。だが、その狙いの本質は、現人神を頂点とする国家神道を、わが国の政体を支える理念的なバックボーンとすることであったことは、現在から見ると明らかなことである。

ではさっそく「御改正之一二端奉申上候口上書」を転載してみる。

一 天孫御合體諸藩一和御國體相立根本は、先づ天朝之権を増し徳を奉備、並に公平に國事を議し、國中に實に可被行命令を下して、少しも背く事能はざるの局を御開立相成候事。

蓋し権の歸すると申は、道理に叶候公平之命を下し候へば、國中之人民承服仕候は必然之理に候。第一天朝に徳と権とを備へ候には天下に待する宰相は、大君、堂上方、諸侯方、御旗本之内、道理に明にして、方今の事務に通じ、萬の事情を知り候人を選みて、六人を待せしめ、一人は大閣老にて國事を司り、一人は錢貨出納を司り、一人は外國交際を司り、一人は海陸軍事を司り、一人は刑法を司り、一人は租税を司る宰相とし、其以外諸官吏も、皆門閥を論ぜず人選して、天下を補佐し奉り、是を國中の政事を司り、且命令を出す朝廷と定め、又別に議政局を立て、上下二局に分ち、其下局は國の大小に應じて、諸國より數人の道理に明かなる人を、自國及隣國の入札にて選抽し、凡百三十人に命じ、常に其三分之一は都府に在らしめ、年限を定めて勤めしむべし、其上局は、堂上方、諸侯、御旗本の内にて、入札を以て人選して、凡三十人に命じ、交代在都して勤めしむべし。國事は總て此両局にて決議の上、天朝に建白し御許容の上天朝より國中に命じ、若し御許容なき箇條は、議政局にて再議し、彌公平之説に歸すれば、此令は是非共下さゞるを得ざる事を天朝へ建白して、直に議政局より國中に布告すべし。其兩局人選の法は、門閥貴賎に拘らず道理を明辨し私なく且人望の歸する人を公平に選むべし。其局の主務は、舊例の失を改め、萬國普通の法律を立て、并に諸官の人選を司り、萬國交際、財貨出入、富國強兵、人才教育、人氣一和の法律を立候を司り候法度、御開成相成候儀御國是の基本かと奉存候。

一 人才教育之儀、御國是相立候基本に御座候事

國中人才を育て候法は、江戸、大阪、長崎、箱舘、新潟等の首府へは、大小學校を營み、各其大學校には、用立候西洋人數人づゝを雇ひ、國中有志の者を教導せしめ、大阪に兵學校を建て、各學課毎に洋人數人づゝ雇ひ、國中兵事に志有る者を御教育相成、且國中に法律學度量學を盛にし、其上漸々諸學校を増し、國中の人民を文明に育て候儀、治國之基礎に可有之候。

一 國中の人民平等に御撫育相成、人々其性に準じ、充分力を盡させ候事

是まで、人々性に應じて力を盡させ候儀不同有之、遊民多くして農而巳多く勞し、他の諸民は運上少なく候へば、第一百姓の年貢掛り米を減じ、士、工、商、僧、山伏、社人之類まで、諸民諸物に運上を賦し、遊樂不要にに關り候諸業諸品には運上の割合を強くし、諸民平等に職務に盡力し、士は殊に務を繁くし國中の遊民、僧、山伏、社人、風流人、遊芸の師匠の類には、夫々有用の職業を授け候御所置き、治國の本源に可有之候。

一 是迄の通、用金銀總て御改、萬國普通の錢貨御通用相成、國中の人口と、物品と錢貨と平均を得候様、御算定之事

錢貨は、天地に象に準じて、萬國一般圓形に造り、且萬國大凡普通の相場有之候へば、是に準じて、銀貨金貨銅貨の割合、大凡西洋各國と同様に御吹替、其大小品位も同等に造らず候ては、往々萬國の交際に不齊を生じ、且交易通商の上に損害可有之候、又國中人口に比すれば、錢貨不足に可有之、器財物品の不足なること甚し、故に錢貨を増し、物品製造の術を大に盛にするに非ざれば、平均にいたること難かるべくと奉存候。

一 海陸軍御兵備之儀は、治世と亂世との法を別ち、國の貧富に應じて御算定の事。

蓋し兵は數寡くして、利器を備へ熟練せるを上とす、方今の形勢に準じ候はば、陸軍治平常備の兵數は、都て凡ニ萬八千許、内歩兵ニ萬千許、砲兵四千許、騎兵ニ千許、他は築城運輸等の兵とすべし。右兵士は、幕臣及諸藩より直に用立候熟兵を出し置、四年毎に交代せしめ、其隊長及諸官吏は、業と人望とに應じて、天朝より命ぜられ、望に應じて永く勤めしむ、其兵は三都其外要地に在て、警衛を職とし、此常備兵の外、士は勿論諸民皆其地へ教師を出して平常操練せしめ、且有志の者は、長官學校に入れて學問せしめ、亦士にても、望に應じて、職業商賣勝手次第行はしめて、往々士を減ずべし。海軍は速に開け難し。先づ海軍局へ洋人數人御雇ひ、國中望の者其外合せて三千人に命じて、長官より水卒迄業を學ばしめ、業の成立に準じて、新に艦を造り、又外國より買て備ふ可し。即今常備の海軍は、是迄御有合せの御艦に人を選みて乗組を命じ、用立候程に修覆し、砲を増して備ふ可し。尚國力の増すに従て兵數を改め、兵備も充分に相増し、殊に亂世には、國中の男女悉く兵に用立候程に御備立御所置有之有候儀御兵制の本源に御座候。

一 舟艦並に大小銃、其外兵器或は常用之諸品衣食等製造の機關、初は外國より御取寄せ、國中に是に依て物品に不足無き様御所置之事

諸物製造の局は、運輸の便地の利を選び、諸所に造営し、各局に西洋人を雇ひて傳習せしめ、國中職人を増し、盛に諸物を製し候へば、海陸兵用之利器海内に充満し、日用の諸品廉價にして良品を得べし。其洋人を雇ふ入費は、職人一ヶ月の雇價食料合せて凡二百より二百五十両なるべし。此金は、日本在留中大凡費すべければ、外國に持歸る貨は些少なるべし、故に洋人を雇ふも、少しも厭ふべきにあらず、諸品製造局は、往々は是非開かざるを得ざる事なれば、此節速に御開相成候儀當然と奉存候。

一 良質の人馬及鳥獣の種類御殖養之事

蓋し欧羅巴人種は、アジア人種に勝る事現然に候へば、國中に良種の人を殖育し候へば、自然人才相増し、往々良國と相成候理に候、亦軍馬は外國之良種に無之候ては、實用に不便に御座候、又牛羊鶏豚の類等の美食を常とし、羊毛にて織候美服を着候様改め候へば、器量も従て相増し、身体も健強に相成、富國強兵之基に可有之候。

此他御改正相成候とも、國風人性に逆はざる事件何程も可有之候へば、方今の無障事件丈は速に御改正相成、其他即今難行事は、人智の開け候に應じて、漸々御改正相成候儀、天理自然に可有之奉存候、斯く御國政に關り候儀を奉申上候は、甚奉恐入候得共、心付候儀を黙止仕り候も、却て不本意に奉存候間、淺見の一二端乍恐奉申上候、何卒被遊御盡力、方今適當に御國律相立、天幕御合體諸藩一和相成候様、奉懇願候、昧死稽首

慶應三年丁卯五月  松平伊賀守内 赤松小三郎(『上田市史 下』1251-1253p 編纂上田市 昭和15年3月 明治文献資料刊行会 昭和57年8月覆刻)

上田藩士・赤松小三郎によってまとめられたこの構想に注目したい第一の理由は、この綱領が書かれたタイミングが明治の自由民権運動期ではなく、「戊辰戦争」いやそれどころか「大政奉還」(慶応3年10月14日)の前、慶応3年5月であったという点にある。この頃の武力倒幕派にはさしたる国家ビジョンなどなかったことは周知のことである。だからこそ、赤松の画期的な政体論はまさに驚き以外のなにものでもない。憲法草案をめぐって後に活躍することになる千葉卓三郎や植木枝盛ら自由民権運動家に与えた影響は計り知れないものであったかも知れない。しかし、武力倒幕によって権力を強奪した好戦的な明治新政府は、天皇を元帥とする専制君主国家をめざし、明治22年「大日本帝国憲法」を制定し、海外拡張路線をひた走る途を選んでしまうことになるわけである。

ところで上田藩の松平氏といえば、元禄10年から版籍奉還まで上山を領した藤井松平氏の分家筋で、その家臣である赤松小三郎の存在は小生としては大いに親しみを感じるところである。

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