改めて戦後70年を掘り下げる

300万人以上の犠牲者を出した忌まわしい太平洋戦争が終焉して70年を経た。とは言っても、太平洋戦争はなにも単発的な戦争であったわけではなく、軍閥が日清・日露・日中戦争へと突き進むことによって味わい続けた戦勝という陶酔感がもたらした悪夢のような最終局面であったと考えるべきである。しかもその起点はすでに幕末期の無謀な攘夷運動にその根っこを持っていた。 ともすると …

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上山温泉発見についてのノート・3

長禄元年説だが、これは安政2年に発行された『東講商人鑑』に拠っている。「出羽国村山郡上の山鶴脛の温泉の図」の見出し文に、「長禄元年開」とある。ただし長禄元年(1457)は実質的に3ヵ月しかなかったことから長禄2年説との関係は微妙。 長禄2年・3年説は、『上山市史』別巻下の「温泉町のにぎわい」の項をみると、文化9年(1812)頃には長禄3年説が定説であったとし …

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上山温泉発見についてのノート・2

湯上和気彦著『上山の湯と宿』について 『上山見聞随筆』から一旦離れて、湯上和気彦著『上山の湯と宿』を参考に僧月秀についてアプローチしてみたい。通説では肥前国(現佐賀県)杵嶋郡、あるいは同国杵島とだけあり、字・小字の記述はない。『大日本地名辞書』(吉田東伍著)によると杵島郡には杵島郷・島見郷・多駄郷・能伊郷などが存在するが、そのうちの何処が月秀の出生地であるの …

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上山温泉発見についてのノート・1

かつて「羽州上山城下温湯記発見!」という記事(クリックでお読み頂けます)を、2015年4月2日付の当該ブログで書かせて頂いた。そこで、元禄15年(1702)時点で不明とされていた上山温泉発見の端緒が、明治35年(1902)脱稿の『上山見聞随筆』(菅沼定昭著)において、《鶴脛温泉の草創は長禄2年(1458)始めて発見す。白禿山は其源にして、山王山の麓に湧出るな …

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2017年、スタートはしたものの…

毎年、正月元旦は、公益財団法人上山城郷土資料館で開催される「新春上山城邦楽の調べ」の和らいだ雰囲気のなかで過ごすことにしている。今年でもう7年目になる。いわば博物館と言っていい郷土資料館・上山城は、それのみならず上山のランドマーク的存在、そして観光拠点としての役割も担っている場所で、そういう空間で元日早々から楽しめる邦楽のひとときはなんとも贅沢な気分を醸し出 …

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研究者の文体とその社会性

わが国の歴史を研究している専門的な学者や研究者は、その研究の対象としている時代や年代ごとに数多く存在している。そして研究発表も学会の機関誌(紙)や大学の紀要、また専門書の出版をとおして毎年数えきれないほど公にされている。しかし、その多くは狭いアカデミズムの中で細々と読まれ、一部のディープなムラ社会の中で流通しているというのが現状に近い。せっかくの研究成果もな …

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あらためて「庄内藩征討」の理由を巡って

本間勝喜氏の論文「慶応4年庄内藩の村山郡『預地』支配(上)」でその根拠を失ったかにみえる「寒河江・柴橋の米蔵から庄内藩が勝手に持ち出した新政府の財産である2万3千俵の米」説の、そもそもの出どころを調べていたが、大正6年刊の大冊『慶應戊辰奥羽蝦夷戰亂史』佐藤浩敏著(東北史刊行会刊/写真は、マツノ書店が400部限定で平成20年に復刻刊行したもの)に、もしかしたら …

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金子与三郎の脱藩未遂事件と吉田寅之助

上山藩士金子与三郎が脱藩を試みた折、親友中村祐右衛門に託そうとした書状の現代語訳が紹介されている。 「一書、残しおきます。御存知の通りごく懶惰(らんだ=怠けるの意:引用者註)の上、多病で大役をつとめているが君恩の万分の一にも報いることが出来ず、このままでは商人も同様で、ただただ禄をむさぼるようなものです。これによる不孝不忠の罪は免れませんが家には相続の者が無 …

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斗南・野辺地・函館をめぐる(2)

今日(11月9日)の函館ライブカメラを覗いたら雪景色。3日〜5日までの比較的好天の旅はまったくスリリングな日程だったことになる。 さて、11月4日、朝早く車のナビにフェリー乗場の情報をインプット。午前10時出発のフェリーだったが、乗船手続きやら何やらがあり1時間前の9時にはターミナルに着いていなければならない。不慣れな土地での運転はナビがあるとはいえ何がおこ …

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