ことばの重さ・軽さ、そして責任

「責任はわたしがとります」と、いかにも格好良く発言している国の最高責任者だが、福島で起こってしまったことについては未だ何の責任もとっていないように私にはみえる。悲しいかな起こってしまったことについては置き去り、これから起こるかも知れないことについては責任を取るというのだ。これは大変な矛盾=言語的なトリックだと言わざるを得まい。しかも原発事故はいったん起こってしまったら誰も責任などとりようもないとてつもないものであることはチェルノブイリのみならず福島でも悲しいかな証明されてしまっている。そう簡単に「責任はわたしがとります」なんて言えるしろものではないはずである。だから言われてもまったくリアリティをともなわない空言のように響いてくるだけだ。40年稼働(海外では30年のところが多いと聞く)させた後は廃炉ときめていた約束事も「安全だからもう10年延長」して稼働させ続けるというニュースも飛び込んできている。40年稼働と決めたときにはそれなりの根拠があったとするなら、なし崩しとは正にこのことで、得体の知れない危惧をすら感じる。だからといって、ことばの重量がどんどん軽くなってきていることを嘆いてみても現実は何も変わらない。そのことがうとましくも思える。私たちはそこまでして経済効率を優先させるのかどうか真剣に考える必要があろう。起こってしまってからでは取り返しがつかないことを既に起こしておきながらそれをまた繰り返そうとしているのだ。放射能汚染が原因で避難されている福島の方々はどんな気持ちでこれらの責任感のともなわない「責任論」を聞いているのだろうか。それを想うといたたまれなくなる。本当にいかなる状況下においても100パーセント安全なら、つまり日本語ではこれを「絶対安全」と表現するのだが、全世界の発電をすべて原子力に置換してもまったくかまわないのだ。その真の意味での「絶対安全」という日本語すらすでに福島であっさり裏切られたのだからもう二度と使えまい。

go top