赤報隊メモ・補

 クーデターと言ってよい「王政復古」の失敗のあと、西郷隆盛の命令で、旧幕府勢力を挑発するための江戸市中撹乱策動に利用され(薩摩藩邸焼き討ち事件を誘発)、その後「偽官軍」として処断された「赤報隊」。その組織概要について調べたとき、1番隊=相楽総三グループ、2番隊=御陵衛士グループというように、そこまではそれなりに納得出来たのだが、3番隊の構成メンバーがどうして水口藩士であるのか、その理由がわからないままだった。ところが、このたび、「上山城開館30周年記念」イベントの一環として開催された「上山ゆかりの三大名を語る」のシンポジウムのなかで、安城市歴史博物館学芸員・三島一信氏の講演「三河時代の藤井松平家・二代信一の功績」から、思いもよらぬ、その問題を解くための重要なヒントを得ることが出来たのである。
 その話は、信長・秀吉・家康が闊歩していた戦国時代にまで遡るのだが、賤ヶ岳(しずがたけ)の七本槍(福島正則、加藤清正、加藤嘉明、脇坂安治、平野長泰、糟屋武則、片桐且元)のひとり、加藤嘉明のその後の嫡流にかかわることなのである。信長・秀吉・家康を折々に支え、関ヶ原そしてそれ以降においては徳川家への多大なる軍功によって、伊予松山藩20万石、隆盛期には会津藩40万石の大大名として君臨することになる加藤氏が、ある事件[藩主加藤明成と家老堀主水の不仲から生じたとされる、寛永16年(1624)の会津騒動:ここでは詳細は省略する]を契機に、改易寸前の2万石にまで減封のうえ、水口藩への移封を強いられたという、いわば加藤氏の〈栄枯盛衰〉にかかわる歴史の一端を聞くことができたからである。その加藤氏に仕えていた者たちにとっては理不尽とも思えたのであろう(藩主の失政であり家老以下家臣にはその責任はないと考えた)幕府(徳川家)の仕打ちに対し、労苦を強いられてきた水口藩士は、怨念や復讐心を持って幕末期を迎えていたと考えられるのである。その反徳川エネルギーの一つの表現が「赤報隊」への合流となったと考えられるのである。この貴重なヒントに出合ったおかげで、赤報隊1・2・3番隊の陣容の内容を、由来も含め、一定程度理解するに至ったのである。三島氏講演のテーマとは直接関わらない枝葉の話から、偶然にも望外な資料を得ることが出来、ありがたく思っているところなのである。人の話はやはり数多く聞くもののようである。

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