原田伊織著『明治維新という過ち』(毎日ワンズ刊)は、まったく新しい維新史の視座を提起している一書である。全編衝撃的な論考なのだが、なかでも「吉田松陰というウソ」には驚かされる。これまで常識であるかのように思い込んできた「吉田松陰像」は、実は明治になってから山縣有朋(狂介)が創作した物語=虚像だというのである。
まず、史実として「松下村塾」は「吉田松陰」が作って運営し続けた私塾ではなく、叔父にあたる玉木文之進が天保13年(1842)に始めた私塾であったこと。このあたりは幕末史に関心を持つものであれば了解ずみの事項であろうか。ここから先が衝撃的なのだ。その私塾を安政2年(1855)からわずか3年間だけ(1年10ヶ月説もあり)吉田松陰が借り受け、今で言う「ダチ」を集めて、日々、攘夷だ、暗殺だ、と叫び、そこに集っていた「ダチ」(高杉晋作、久坂玄瑞、前原一誠、山縣有朋、伊藤博文等)は、後に惨たらしいテロを繰り返すことになる長州過激派のリーダーとなっていく面々だったというのである。ちなみに、その松下村塾は、中断期間もあったが、玉木自身によって明治2年(1869)に再開され、明治25年(1892)まで存続している。ただし、主宰者の玉木は明治9年(1876)、塾生・前原一誠の起こした「萩の乱」の責任をとって自害している。
そして何と言っても一番の驚きは、通説では、あたかも安政の大獄で井伊直弼によって殺されたことになっている吉田松陰だが、それは事実とかなり異なっていること。真相は、松陰が老中間部詮勝(まなべあきかつ)を暗殺しようとした事実が露見し、長州藩が松陰を捕縛していること。その後身柄は江戸に送られ、日頃よりさまざまな「暗殺」を口にしていた不審人物(無数にいた過激浪士の中の無名な一人としての吉田寅之助)として、幕府から長州藩へ人物照会と嫌疑の内容についての問い質しがあり、それに対し、長州藩自らが「斬首やむなし」との返答をしていたがゆえの斬首であったこと。したがって、井伊直弼は、吉田寅之助なる人物を、そもそも知らなかったと考えられること。そして当時の長州藩にとってさえ、吉田寅之助は厄介者であったのだというのである。
それにも関わらず、武力倒幕を果たしたのち、明治新国家建設を後世に物語るための《神話》創成が必要になった時点で、かれらを含めた維新のひとつの「物語」として、吉田松陰のいたわずか3年の間に松下村塾に集ったそれぞれのメンバーたちを、維新のヒーローとして、日本軍閥の祖・山縣有朋が自らの創作による《神話》のなかにとりこんだというのである。私たちが、教科書その他で、いつしか史実であるかのように自然にイメージしてきた吉田松陰像、ひいては幕末維新史全体は、原田氏の著書によれば、どこまでも怪しげな《神話》のようなものなのである。
他にも、水戸光圀の実像および「水戸学」についての検証、あるいは奥羽鎭撫軍(薩長)が当時奥羽においては単なる反乱軍としてみられていたことなど、自分の中にある常識的なイメージはいったい何だったのかを問われるような深刻な論考が本書にはぎっしり詰まっているのである。
不愉快な気持ちを引きずりながら否定的に読もうが、なるほどと頷きながら読もうが、それはもちろん読者の任意だが、これまでの維新論とは全く異質の、原田伊織著『明治維新という過ち』(毎日ワンズ刊)の一読をおすすめしたい。