改めて「原発」考

生前、吉本隆明は、科学技術探求の本質について書いている。その進化=深化を担う探究心は誰にも止められない性質=自然過程にあり、それを倫理的に抑止しようとすることは科学技術探求の本質から考えても間違っている、と。そして、科学者もその探求をやめてしまったら、それは科学者にとっての自殺行為=生命の終焉を意味するのだ、とも。それを「原発」の開発と推進の問題にアナロジーして考え、吉本隆明は、我が国における現在進行形の「原発」の開発と推進をそのままの状況のなかで肯定していたと解釈する人が多いようなのだ。

しかし、吉本隆明を少しばかり読んできた人間の一人として、単純にそう言い切れるのかずっと疑問に思ってきた。吉本隆明には「科学技術の探求」自体を論じる本質論の位相と、それが現実的な政策として具現化される政策論的な位相を別に扱う視座(異相化)があり、彼の思想を単層的に、現状における「原発」推進に結びつけてしまう考え方はかならずしも核心を射ているとは言えまい。そればかりか、いかにも浮薄な吉本認識であるようにさえ思われる。政策論上で、なすべきあらゆる施策(リスク管理)を尽くしてこそ、初めて《推進》が本質論として語られるのであって、安全に関する最終責任者の不在、抜け道だらけ、危機管理上の留意点すら曖昧なままの「原発」推進を認めていた訳では全くないのだ。リスク管理上の課題の克服が見通せない場合、まずはその課題への本質論上でのアタックが共時的に追求されねばならない。具現化の遥か手前で。

人間の好奇心、人間の探究心は、「科学技術の探求」の領域のみならずどこまでも一人歩きし、それ自体、なんぴとも押しとどめることは出来ない。そのことは自明の事だ。が、「原発」事故によって住む場所すら奪われ、日常的に生命・身体の危機と闘わざるを得ない現実を強いられている無数の被災者の出現を、科学技術の進歩のための代償として安易に許容するような思想を、そもそも吉本隆明が所有している訳はないのである。

「科学本質論」と、それを応用して具現化する「科学政策論」の位相の違いをわきまえない論議は愚かで、非生産的でさえある。吉本隆明に対する誤解もその混同から生まれているように思われてならない。

次々と報道される「福島原発事故」関連ニュース。23億ベクレルもの高濃度汚染水が海へ漏出していた問題等を見聞きするにおよび、「科学政策論」から行政上の実務段階へと落とし込まれる際の「現実的な電力行政」→その関連施設の「管理行政」およびそのスキルならびに処理能力のレベルの低さは、「原発」推進か否かをまともに議論できるレベルでない事が、はっきりしていよう。科学者でもあった吉本隆明が、このような杜撰な状況下での「原発推進」を容認するわけはないのである。

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