ちょっとした、重大なる契機

慶応4年(1868)1月17日、新政府より「仙台一手にて会津を討伐せよ」との勅命を受けた仙台城内は、「討会是非論」をめぐって侃々諤々激論が交わされていた。

そもそも、この「仙台一手にて」という命令は、京における仙台藩士坂本大炊(おおい)の、「会津如きは仙台一藩にて征討可能」という大言壮語から始まったとされている。坂本大炊は仙台藩内でも勤皇派と目されていた人物であり、鳥羽伏見の戦い直後の1月12日、伊達慶邦の遣いで京に上り、その酒宴の席で、この一言を漏らしたとされている。

こんな戯言で政治が動いて行くと思うと、ゾッとする。

この発言を聞いた大久保利通は驚喜したという。そして、その5日後の1月17日に発令された勅命が、冒頭のものなのである。まだ奥羽鎮撫総督府が仙台に本営を置く2ヶ月も前のことである。

その後仙台藩は、但木土佐を中心に、仙台は「一藩にて会津を鎮撫する」などということを考えた事もなく、何かの間違いだろう、ぜひ撤回してほしい旨の申し入れを行ない、それが認められたが、1月20日、あらためて「仙台藩を中心に、奥羽諸藩との連携、とりわけ米沢藩と協力のもと、会津を征討せよ」との勅命が下ったのである。奥羽にとってはまさしく庇を貸して母屋を取られるパターンである。

奥羽諸藩が会津救済に向かって同盟化して行くなどというイメージを、この時、新政府は持てなかっただろうと思われる。それだけではない、奥羽諸藩もなかなか藩論を統一出来ず、展望をもてず漂っていた観がある。

このままの状態で、なぜ平和裡に新時代へソフトランディングができなかったのか、不思議でならない。

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