金子与三郎の「二弟一妹」

金子与三郎に弟妹がいたことをこれまで知らなかった。
寺尾英量氏が大正15年に上梓した『幕末之名士金子輿三郎』(上山町教育會刊)を丹念に読み直してみると次のように明記されていた。正直、驚いた。

「先生(金子与三郎)に2弟1妹あり、長は大六と称し菊池氏を継ぎ(=菊池大六)、武芸を志し江戸に出て、桃井、長沼の門に遊び、当時江戸における著名の剣客なり。曾て作事奉行たりし故を以て、晩年指物師として生活費に資せしを見ても如何に器用なる人なりしかを知るべし。叔は平策といい、のち春蔭と改む。小池氏を継ぎ(=小池春蔭)、書道を習得して、その妙に達し、明治の初年山形県下の小学校に於ける習字帖は其の書せしものなり。一妹は名をみねといい、武人門奈勇人に嫁し(=門奈みね)、裁縫の術に於いて藩内技を比するものなかりしという。」(括弧書きは筆者)

 このように、寺尾英量氏の著書によると、金子与三郎、菊池大六、小池平策は正真正銘の兄弟ということになる。参考に、明治2年藤井松平氏最後の分限帳(月岡神社所蔵)から、それぞれの名を拾ってみると以下の通りであった。

    留守居 大目付 旗奉行 八拾石  菊 池 大 六
    馬廻席 百拾石          金 子 弌 蔵
    馬廻席 八人扶持         小 池 平 策

金子与三郎は慶応3年12月26日、前日の薩摩藩邸焼き討ち事件による被弾で死去。金子家の家禄を継いだ長子が金子弌蔵である。

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