斎藤暹氏の死

斎藤暹(のぼる)氏が4月6日・午後9時47分、肺炎のため亡くなられた。享年72だそうである。「告別式は近親者で行なう」という新聞記事は、氏の人柄を感じさせるに充分、そんなふうに合点できた。
笹沢信のペンネームで、近年『ひさし伝』(494頁:新潮社)『藤沢周平伝』(436頁:白水社)と立て続けに上梓され、健筆ぶりは目を見張るものがあった。しかしながら小生にとっての斎藤暹氏は、そういった著述家という側面より、山形新聞社文化欄担当としての氏の印象のほうが強かった。

なぜなら、1978年に帰郷し安喰昭典氏主宰の雑誌「幻野」に「永山一郎論」を書き始めていた小生に、はじめて「山形新聞に原稿を書いてみないか」と声をかけてくださった人だったからである。その時(1980年)書かせていただいた拙稿は「状況としての散在」という文化欄の記事で、いまも覚えている。価値観の多様性を手探り状態で生きることを強いられる私たちの、着地する場所を喪失しつつあった「倫理」というファクターについて、状況論的に考察してみようとしたものだった。たしか吉本隆明氏が「マス・イメージ論」を世に送り出したころだったと思う(記憶が違っていたらお許しを)。

その後、文化欄担当者としての斎藤暹氏は編集局整理部に移られ、数年後に退社されたと聞いていた。数年の後「一粒社」という出版社を立ち上げられたわけである。無口で、印象としてはストイックな方に見えたが、プライベートな領域では、おそらく夜な夜な熱い気持ちで資料収集に励んでおられたのだろう。『ひさし伝』や『藤沢周平伝』はそのみごとな収穫物のように思える。斎藤暹氏よ、安らかに……。ご冥福をお祈り致します。

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