マツノ書店から復刻されていた『同方会誌 全10冊』を、このたび幸運にもオークションで購入することが出来た。目を通してみると、さっそく第1巻・19頁〜20頁に掲載されている次のような記事が飛び込んできた。
「幕府の亡びたのは専制に対する反動が其一原因であるけれども太平の世に冗費が殖えて臨時に応ずることができないときに突然外交が起きたのである。この繁忙の際に当たって造船所(横須賀製鉄所のことー引用者註)を取立てるなどは随分金のいったことであった。当時これを主張したるものは小栗上野君(=忠順ー引用者註)であった。此の人は勘定奉行で財政の権を握って非常に倹約をして当時の俗吏に悪く言われたけれども、全体英邁の人であった、今健在している栗本鋤雲翁も当時安芸守と云って小栗の片腕であった。翁は早くから洋学もし、洋行もした人である。此の人に造船の事を託して横須賀に造船所を造った。
然るに或人が幕府の運命もなかなかむつかしい。費用をかけて造船所を造ってもその成功する時分には幕府はどうなるか分からないと云ったら、小栗君は容を改めて之に答えた。幕府の運命に限りあるとも、日本の運命には限りがない。我は幕府の臣であるから幕府の為に盡くす身分ではあるけれども、結局日本のためであって幕府のしたことが長く日本の為となって徳川のした仕事が成功したのだと後に言われれば徳川家の名誉ではないか。国の利益ではないか。同じ売り据にしても土蔵付売据の方がよい。跡は野となれ山となれと云って退散するのは宜しくない。と云ったが誠に其通りであって…略…」(島田三郎「懐舊談」より)
このように、小栗忠順(ただまさ)は勝海舟等の反対を押し切って日本の近代化(この記事中では造船所建設だが、ほかに多くの近代化構想を有していた)にむけて舵をきっていたのである。士にかぎらず幕府の優秀な人材は、幕府という時代的な枠組み(属性)を超えて、わが国の将来を遠望しながら〈政〉を実践していたようである。後に大隈重信は「明治政府のやった近代化政策の大半は小栗の構想を模倣したに過ぎない」とまで言っている。慶応4年(1868)閏4月6日、薩長勢力によって罪無く斬首された小栗忠順だったが、士こそ真の政治家というにふさわしく、まさに〈ラスト・サムライ〉の形容が似合う幕臣であったと思う。
『同方会誌』とは、江戸を生き、明治をつくった旧幕臣たちが先祖と自らの足跡をまとめた記録集で、明治29年(1896)~昭和16年(1941)にかけて刊行された全65号におよぶ会誌。それを平成23年9月、全10冊に合本化し、さらに通しノンブルを付して刊行したのがマツノ書店版。
島田三郎(しまだ さぶろう/嘉永5年(1852)12月7日〜大正12年(1923)11月14日)は、日本の政治家、ジャーナリスト、官僚。幼名は鐘三郎、号は沼南。元老院や文部省に勤務した後、自由民権運動に参加し、立憲改進党に加盟。大正期に至るまで衆議院議員をつとめた。『開国始末』を著し、井伊直弼の功績を評価している。
写真:小栗忠順の菩提寺である「東善寺」(群馬県高崎市倉渕町権田169)境内に建つ胸像。栗本鋤雲の胸像も並んで建っている。(昨年の「小栗まつり」にて筆者撮影)