仙台藩士・真田喜平太のルーツ

慶応4年(1868)1月の「鳥羽・伏見騒乱」以降、「朝敵」の烙印を押されてしまった会津藩を救済すべく動いていた諸藩の動向が、いよいよ4月中旬には顕在化して行くことになる。奥羽諸藩重臣たちによる秘密会談が、4月29日七ヶ宿街道・関宿本陣の渡辺丁七邸で開催されるに至るのもその一つの表れであった。
では、なぜその場が城内ではなく関宿本陣の渡辺丁七邸だったのか。その理由は、仙台藩軍事参政真田喜平太の次のような発言をみると明らかとなる。
「もし会津藩関係者を白石城内に入れたら、新政府に睨まれるばかりではなく、不要な嫌疑をかけられることにもなる。よって、話し合いは陣門でやるべし」と。
この真田喜平太の意向を、奉行(家老)但木土佐が了諾し、関宿での会談が決定したとされているのである。
ところで、その仙台藩士真田喜平太だが、実は、戦国武将真田幸村の次男の嫡流であったというのだからビックリ。その意外な話を知人から教わり、さっそく調べてみると確かに資料には次のようにあった……。

  仙台藩真田氏の始祖片倉守信は真田幸村の次男。
大坂夏の陣(1615)大坂城落城の際、当時4歳であった守信は伊達家先鋒であった片倉重長に託され、以後、白石城二の丸にて密かに養育される。
後に姉、阿梅(おうめ:守信と一緒に保護された)が重長の後室となったため、片倉家の親戚衆として藩内での身分が確立。
徳川将軍家による残党狩りを慮り、寛永17年(1640)より片倉の姓を名乗るが、正徳2年(1712)守信の嫡子辰信の代に真田姓に復した。

そしてさらに、グッド・タイミングとしか言いようが無いが、そのルーツを知るための企画展ともいうべき「仙台真田氏の名宝展Ⅱ」が、蔵王町ふるさと文化会館展示室で開催されているという情報を得、さっそく足を運んでみた。思いのほか狭い展示空間だったが、ささやかながら貴重な史料が並び、その歴史に触れることができたのである。
まさしく、知人には〈感謝〉以外のことばは、見当たらない。

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