海外拡張主義の思想

史的に探っていくと、維新以降の日本海外拡張主義の端緒がみえてくる。多くの論考は昭和初期における日本軍国主義の台頭からの潮流として捉えてしまいがちだが、根っこは幕末期に熱病のように流行った過激な攘夷思想の内部に胚胎されていたもののようにみえる。日清戦争〜日露戦争〜日中戦争〜太平洋戦争を貫通している流れは、折々の世界情勢の変化に左右される形で戦争状態を進行させていったという性質よりは、あるカリスマの狂気じみた外交思想を忠実に体現しようとした勢力によって、むしろポジティブに推進されていった可能性のあることがわかる。つぎの文章を冷静に読んで頂きたい。日本民族だけが高い徳を有しているかのような書かれ方となっており、したがって他国を次々と支配下に置き、徳を施していかなければならないという考え方になっているのである。このような思想を背景におきながら日清戦争〜日露戦争〜日中戦争〜太平洋戦争を再度見直してみる必要をひしひしと感じるのである。

【読み下し文】
日は升(のぼ)らざらば則ち昃(かたむ)き、月は盈(み)たざれば則ち虧(か)け、國は隆(さか)んならざれば則ち替(すたれ)る。故に善く國を保つ者は、徒(いたず)に其れ有る所を失うこと無からず、又た其れ無き所を増すこと有り。今ま急に武備を修め、艦略具(そな)え、礮略足らし、則ち宜しく蝦夷を開墾して、諸侯を封建し、間に乘じて加摸察加(カムチャッカ)隩都加(オホーツク)を奪(かちと)り、琉球を諭し朝覲會同し比(ひ)して内諸侯とし、朝鮮を責め、質を納め貢を奉る、古(いにしえ)の盛時の如くし、北は滿州の地を割(わ)り、南は台灣・呂宋(ルソン)諸島を牧(おさ)め、漸に進取の勢を示すべし。然る後に民を愛し士を養い、守邊を愼みて、固く則ち善く國を保つと謂うべし。然らず坐して群夷が爭い聚まる中、能く足を擧げ手を搖すこと無けれども、國の替(すたれ)ざらん者は其の幾(き)と與(とも)なり。

【現代語訳】
日が昇らなければかたむき、月が満ちなければ欠け、国が繁栄しなければ衰廃する。よって、国を善良に保つのに、むなしくも廃れた地を失うことは有り得て、廃れてない地を増やすこともある。今、急いで軍備を整え、艦計を持ち、砲計も加えたら、直ぐにぜひとも北海道を開拓して諸侯を封建し、隙に乗じてカムチャツカ半島とオホーツクを取り、琉球を説得し謁見し理性的に交流して内諸侯とし、朝鮮に要求し質を納め貢を奉っていた昔の盛時のようにし、北は満州の地を分割し、南は台湾とルソン諸島を治め、少しずつ進取の勢いを示すべきだ。その後、住民を愛し、徳の高い人を養い、防衛に気を配り、しっかりとつまり善良に国を維持すると宣言するべきだ。そうでなくじっとしていて、異民族集団が争って集まっている中で、うまく足を上げて手を揺らすことはなかったけれども、国の廃れないことは其の機と共にある。

ここではこれ以上語らない事にするが、この文章は吉田松陰の『幽囚録』に書かれているものである。松下村塾で吉田松陰の影響を受けた帝国陸軍の祖・山縣有朋がその吉田松陰の対外政策の思想を具現化すべく海外拡張を推進していったと考えてもあながちお門違いとは思えないのである。

go top