歴史研究書と文体

歴史研究書を読んでいると辛い。言語表現がなんともストイック過ぎて、血の通っている人間が書いているとは思えないケースが多い。もっと自然に、私たちが日常語を発する時の呼吸やリズム、そして感性に近いところで書いて欲しいと思う。だからと言ってもちろん、湿気を含んだ過度な感情を滲ませてはいけない。
さらに、巻末につく「註」や「参考文献」のオンパレードには呆れかえってしまう。場合によっては、本文より多い「註」や「参考文献」がスペース狭しと埋められている論文すら見かける。《あなたが一生懸命研究されていることは存じ上げていますよ》と語りかけてあげたいくらいだ。もしあの論文の様式美でアカデミズムを表現していると考えているのであれば、それは独善的な勘違いである。

とりわけ大学で発行する紀要にその傾向を強く感じるが、論者(執筆者・研究者)も大いに損をしているのではないか。本文を読みながらその都度「註」の頁に飛んでいたら、読んでいて次第に醸し出されてくる論の流れ、つまり時間の継続性がブツブツと切断されかねない。サッカーにたとえれば、やたら吹きまくる下手な審判のホイッスルを聞かされている気分に近い。ゲームの流れが寸断される現象と同じだ。魅力が半減されてしまうということだ。論考の流れにそってダイナミックにうねり出す要素をあらかじめ捨て去っていると同じなのである。

論文を書く人はもっと工夫し、読む人の意識の流れを考えた文章を書いて欲しい。「註」は「註」として腑分けせず、本文中に組み込んで制御しなければならないのだと思う。知識をひけらかしているような嫌らしさを感じる時さえある。表現のスタイル、あるいは文体を変えることは、けっして研究の内容を低下させることを意味する訳ではないし、自信を持って言語表現のドライブ感を追求して欲しいものである。

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