〈規範〉はありや?

ネット社会といわれる環境の中で、わたしたちは現在、何を基準として日常の行動を律しているものか、問いを投げかけてみたくなる。観念と行動を無意識のうちに左右する〈習俗〉〈習慣〉や〈法〉、さらには成長過程で身につけていくはずの〈善悪〉についての判断力や〈社会常識〉……。これらのどれもが主体の側から日々その力を弱め、危うくなってきているように思える。加えて、子どもたちにとって〈規範〉形成の最後の牙城であったはずの「親の背中」も、新しい家族観やライフスタイルの急変、低迷する時代の空気の中で疲弊し、実に情けない状態になってきている。
ではいったい今、とりわけ子どもたちの世界に、日常を律する惰性以外の〈規範〉は果たして存在しているのだろうか。家庭ではもちろん、学校でも社会生活に必要な最低限のルールを、教科教育以外にさまざまな実践活動をふくめながら必死の思いで指導しているに違いない。しかし、それらが子どもたちの世界に定着する以前に、その速度に倍して、毎日の新聞・テレビが伝える社会のひずみや腐敗や事件の「ことば」や「映像」は、多感な子どもたちの感性のなかで、せっかく実を結ぼうとする〈規範〉的な理念をいとも簡単に相殺し、追い越してしまっているのではないか、そんな危惧を持ってしまうのは私だけだろうか。
もし、誰をも、そして何をも信じられなくなった精神が社会全体を覆ったときのイメージをSF的に想像してみると、ただただ言葉を失ってしまう。環境汚染よりももっと本質的で恐ろしい〈崩壊〉現象が胚胎しつつあるからだ。前者はテクノロジーによって克服できる可能性を全面的に失ってしまったわけではないが、後者は技術論的にどうこう出来る問題をはるかに超越しているからだ。
もし子どもたちのモラルハザードを置き去りにしたままテクノロジー優先で突き進んで行けば、とんでもない近未来社会になるだろう。現実と仮想現実をつなぎとめる認識論的な位相には、常に高度なモラルが前提として成熟していなければならないのだから……。
喪失しかかっている子どもたちの〈現実感〉や〈存在感〉を蘇生させ、日常をつかさどる〈規範〉意識といったものを、倫理的な引締めや強制によらず、あくまでもネイティブな形で再構築しえなければ、私たちの未来はさらに暗澹たるものとなるに違いない。

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