桁外れにすぐれた研究

2013年に発表された本間勝喜氏の研究「慶応4年庄内藩の村山郡『預地』支配(上)」は、桁外れにすぐれた研究だ。それは、これまでの通説を覆す画期的な仕事で、驚きに値する。この論考を読む限り、奥羽鎭撫総督府、仙台藩、天童藩、吉田大八の関係性のみならず、幕府が庄内藩に与えた7万4千石の「預地」をめぐるこれまでのいっさいがっさいの通説は根拠のないものであったということになる。そればかりではなく寒河江柴橋代官所をめぐる役人、名主、大庄屋の虚実入り乱れた情報のやり取りが、奥羽鎭撫総督府を動かし、戦端がひらかれていくというのが真相のようなのである。

これまで、庄内藩が「朝敵」の烙印を押されることになった理由として様々な書物に書かれ、筆者もそれらの資料を踏襲して引用して来た「2万3千俵の米を庄内藩が自藩に持ち去った」という事実らしく書かれて来た内容そのものが、当時の出羽幕領の年貢収納方法から逆に考えていくとそもそもありえないと本間氏は論述する。柴橋陣屋でも寒河江陣屋でも「2万3千俵」などといったまとまった年貢米はそもそも年貢収納方法からみても存在するはずがなかったと指摘するのである。

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「官軍側が河野(旧代官所役人)らの偽った報告を受けて、(天童藩に命じて―引用者註)村山「預地」を急襲するといった強攻策をとらなければ、仙台藩が仲介して、総督府と庄内藩の間で「預地」の取扱いについて、もう少し日時を要して丁寧な交渉が行いえたという可能性があったと思われる」このように記し、幕領が庄内藩へと移譲されることを潔しとしなかった代官所の役人たちが、奥羽鎭撫総督府へ嘘の報告書を提出したことが、庄内藩と総督府の不穏な関係の始まりであり、ひいては吉田大八の悲劇の発端ということになるという主張なのである。

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