小栗忠順の最期

鳥羽・伏見の騒乱のあと、江戸城内における重臣会議で薩長軍との徹底抗戦を主張していた小栗忠順は、恭順をきめた徳川慶喜から幕府の職を解かれた。そしてその時点で、「主君が戦わないと言っている以上、これからの戦いにはもはや大義がない」と最終的に徹底抗戦派の誘いを断っている。そのような状況のなか、慶応4年1月28日、三野村理左衛門が小栗屋敷を訪ね、身の危険を案じ「米国 …

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楢山佐渡と原敬

戊辰戦争において、慶応4年(1868)7月4日、奥羽越列藩同盟を突如離反した秋田藩を征討すべく、南部(盛岡)藩は8月、秋田藩に対し宣戦を布達、すかさず出陣し藩境を越えた。そしていっとき大館城を攻略する勢いであった。時の藩軍総督は主席家老楢山佐渡。そして大館を攻略したあと、楢山佐渡は周辺地域の肝煎たちを集め、元号が慶応から延壽に変わった旨、さらに年貢の減免措置 …

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近代日本初の言論弾圧?

坂本藤良著『小栗上野介の生涯』(昭和62年刊/講談社)を読んでいてちょっと面白い記事が目にとまったので紹介したい。 坂本氏の見解によると「小栗の進歩的、開明的な考え方に共鳴し尊敬していたのは、福地源一郎(桜痴)であった」という。つまり当時、小栗忠順の我が国近代化に向けた《郡県制構想》の思想を最も理解し得ていた人物として福地源一郎という名を挙げている。そこでさ …

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舟生源右衛門のその後

幕末期の新庄藩家老舟生源右衛門といってもピンとくる人は限られている。奥羽列藩同盟について関心を持っている方か、新庄市内に住む郷土史家諸氏以外、その名を知る人はそう多くはいまい。舟生源右衛門は秋田藩家老戸村十太夫同様、藩主の命をうけ新庄藩家老としてまさしく藩を代表して慶応4年(1868)5月3日白石城における奥羽列藩同盟結成調印式に臨んだ人物。 これ(下記)が …

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月刊「かみのやま」2015年10月号

月刊「かみのやま」2015年9月号

・「上山城」からのたより第77便/上山城 ・蟹仙洞写真館/宮川の氾濫~昭和30年代~/長谷川浩一 ・折々の詞画抄 勝手に井上ひさし(3)/木村輝子 ・わがまち再見/沢丁の道路碑/鎌上宏 ・連載◆わがロードバイク・ライフ(9)/黒森鋼  ・随想◆由布院の三日間(7)/佐藤藤三郎 ・モンテディオ山形を応援しよう/水沼常喜 ・戦時下を物語る資料たち/弁天二郎 ・月 …

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