近代日本初の言論弾圧?

坂本藤良著『小栗上野介の生涯』(昭和62年刊/講談社)を読んでいてちょっと面白い記事が目にとまったので紹介したい。

坂本氏の見解によると「小栗の進歩的、開明的な考え方に共鳴し尊敬していたのは、福地源一郎(桜痴)であった」という。つまり当時、小栗忠順の我が国近代化に向けた《郡県制構想》の思想を最も理解し得ていた人物として福地源一郎という名を挙げている。そこでさっそく福地源一郎について調べてみると、これがなかなか野太く、面白い。この福地源一郎なる人物は、資料によると文久元年(1861)に柴田日向守に付いて通訳として文久遣欧使節に参加、また慶応元年(1865)には再び幕府の使節としてヨーロッパに赴き、フランス語を学び、西洋世界を視察している。そこでロンドンやパリで刊行されている新聞を見て深い関心を寄せ、また西洋の演劇や文学にも興味を持ち始めたとある。同時に「自由ならびに民権」の思想に心動かされ、帰国後、慶応4年閏4月、江戸で『江湖新聞』を創刊。また、数人の同志と後に東京日日新聞の発行に関わった人物ともある。ここまでは、特別のことではない。

江湖新聞-3号

この『江湖新聞』は慶応4年閏4月3日からほぼ1日おきに発行され、5月22日の第22集で終わっている。上に掲載した図版は第3集の一部分である。柳河春三が創刊した『中外新聞』と並んで、文章、内容ともにすぐれ、評判の良かった新聞であったらしい。だが、強権的な新政府との関係において順風満帆とはいかなかったようだ。というのは、創刊の翌月、彰義隊が大村益次郎率いる新政府軍に上野で敗れた後、同紙に「強弱論」という論説を掲載し、「ええじゃないか、とか明治維新というが、ただ政権が徳川から薩長に変わっただけではないか。徳川幕府が倒れて薩長を中心とした幕府が生まれただけだ」と厳しく述べた。するとこれが新政府の怒りを買い、新聞は発禁処分、福地は逮捕されたというのだ。この新聞が一ヶ月半という短命に終わっている要因はそういうことであった。近代日本初といってもよい「言論弾圧事件」のひとつであり、太政官布告による新聞取締りの契機ともなったとされている事件なのである。補足しておけば柳河春三の『中外新聞』もこの『江湖新聞』の後、同様に記事をめぐって発禁処分に処せられている。

明治という時代は、このような傲慢かつ強権的な政府によって、やりたい放題の在りようで始まった事実を、私たちは忘れてはならないのである。

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