楢山佐渡と原敬

戊辰戦争において、慶応4年(1868)7月4日、奥羽越列藩同盟を突如離反した秋田藩を征討すべく、南部(盛岡)藩は8月、秋田藩に対し宣戦を布達、すかさず出陣し藩境を越えた。そしていっとき大館城を攻略する勢いであった。時の藩軍総督は主席家老楢山佐渡。そして大館を攻略したあと、楢山佐渡は周辺地域の肝煎たちを集め、元号が慶応から延壽に変わった旨、さらに年貢の減免措置等について宣したと、大正8年(1919)藤嶋書店より刊行された『大館戊辰戦史』に記してある。

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時は移ろい、大正7年(1918)、爵位をもたない衆議院議員としては史上初、内閣総理大臣となり「平民宰相」と呼ばれたことで知られている原敬も、盛岡で生を享けた人物であった。

楢山佐渡は戊辰戦争に敗れた後、戦犯として一身にその責を負わされ、盛岡市内北部にある名刹報恩寺境内にて切腹・斬首されている。この切腹・斬首という表現は、切腹を許されず、扇をもって切腹の形をした状態で斬首されるさまのいいようであるらしい。報恩寺の方の話では、昭和35年(1960)の火災で寺院を焼失してしまう前まではその時の血飛沫あとが生々しく寺の板戸に残っていたそうである。享年39であった。一方原敬はこのときまだ12歳の少年で、当時ともに藩の要職にあった楢山家と原家には交流があり、原敬は楢山佐渡を叔父さんのように慕っていたという。その少年原敬は、楢山佐渡の斬首の日、報恩寺の裏山に潜み、固唾をのんで過ごしていたというエピソードが残されている。

周知の通り少年は後に首相となるのだが、第19代内閣総理大臣に就任する前年、つまり大正6年(1917)9月8日に開催された旧南部藩士戊辰殉難者50年祭における祭文で戊辰戦争に言及し「誰か朝廷に弓を引く者あらんや、戊辰戦役は、政見の異同のみ。当時勝てば官軍負くれば賊との俗謡あり。その真相を語るものなり。今や國民聖明の澤にあり」と臆せずに述べているのである。このことばは奥羽越に住む私たちにとって歴史的に大きな意味を持つものとなった。盛岡藩のみならず新政府軍と戦って敗れた奥羽越諸藩全体の「逆賊」という汚名を冤ぐことばとなったからである。

「平民宰相」原敬であればこそなのだろうか、生涯に亘り爵位の授与をかたくなに拒み続けたとも伝えられているのである。そして俳句を嗜む原は「一山」という俳号を持っていたのだが、これは逆説的な意味をこめ「白川以北一山百文」の揶揄からとっているという。

そのような「平民宰相」原敬であったが大正10年(1921)11月4日午後7時25分、東京駅丸ノ内南口にて無念にも18歳の少年中岡艮一によって暗殺されてしまう。享年65であった。資料によると、この背景には外交政策をめぐる軍部との確執があったようなのだが、犯人は昭和天皇即位にともなう恩赦などによって昭和9年(1934)わずか13年の刑期で赦免されるという不可解な事件でもあった。保釈された中岡艮一はその後も国粋主義者頭山満等との交流があったとされている。

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