さて、何処にしよう?

戊辰戦跡巡り、次は「野辺地」に行ってみようかな……。
明治元年(1868)9月23日に起こった野辺地(のへじ)戦争は、たしかに奥羽越で繰り広げられた内戦=戊辰戦争の戦いの一局面ではあったが、実に奇妙な戦いであったといえる。
その前哨戦は9月10日に起こった。新政府軍による艦砲射撃であった。秋田藩の軍艦春陽丸に乗船した佐賀藩士中牟田倉之助が野辺地に駐留する南部藩の陣に向けて行なったものである。しかし命中率が低く、しかも不発弾が多く、南部軍の被害はほとんどなかったという。いっぽう南部軍も海岸に造成していた台場より応戦。勝敗を決することなく終息している。

そもそもこの作戦は、海上からの攻撃と同時に弘前藩が南部藩陣地に突入し、海陸同時攻撃という作戦であったにもかかわらず、弘前藩がこの作戦に出遅れたため、実効を示せなかったままに終わったと伝えられている。そこで弘前藩は新政府軍内部の不信感を払拭しようとしたのだろう。その不名誉な作戦失敗から13日後、つまり9月23日、弘前藩及び黒石藩の連合軍が、南部・八戸軍が宿陣していた野辺地へ急襲をかけたのだ。ところが調べてみると、攻撃を受けた奥羽越列藩同盟傘下の南部藩(=盛岡藩)は9月20日の時点ですでに新政府に恭順降伏の意を示し、それを受けて新政府も22日に南部藩の降伏を正式に受け入れていたのである。つまり、なんと南部藩降伏後に弘前藩が仕掛けたありえない戦争だったのである。

弘前藩といえばそれまでも終始一貫して曖昧な態度を貫きつづけていた藩であったことで知られていた。7月15日に奥羽越列藩同盟を正式に離脱するのだが、離脱する前から新政府軍と内応し、また離脱後には奥羽鎮撫総督府からの秋田藩援軍派遣要請命令を受けつつ、ポーズとしての出陣はするもののこれといった作戦行動を起こさず、新政府軍からでさえ《日和見藩》と呼ばれることもあったと伝えられているのである。

交戦の結果、逆に南部・八戸藩連合軍が弘前・黒石藩連合軍を撃退し、戦闘はわずか1日で終了。なんとも不可思議な戊辰戦争のひとコマであった。  結果的に、敗走を余儀なくされた弘前藩及び黒石藩の思惑は完全に打ち砕かれてしまったようで、新政府はこの野辺地戦争を弘前藩と南部藩の《私闘》として処理している。つまり新政府軍の不名誉となることを忌み嫌い戊辰戦争という括りの埒外の事件として処理せざるをえなかったわけなのだ。しかし、驚くのはむしろここから先であった。その理不尽な経過にあったにもかかわらず《私闘》に関する責任はなぜか南部藩に向けられた。新政府は野辺地で応戦した南部藩の隊長栃内与兵衛の首を差し出すよう要求したのである。当然にも南部藩はこの不本意な沙汰取り消しを要求、新政府は結果的にこの処分を取り下げることでようやく決着をみている。このように野辺地戦争の顛末からは、奢り昂った新政府軍の在りようの一端を垣間みることができるのだ。
弘前藩はこのほかにも鹿角郡濁川にも出兵しており、この作戦も新政府に対する実績作りのアピールのための放火活動であったようだ。
さて、この野辺地戦争について、弘前藩側からの視点で捉えると次のようになる。野辺地町の現在のホームページを覗いてみる。

《 明治元年(1868)9月22日夜、新政府軍に盛岡藩討伐を命ぜられていた弘前藩は勤皇のあかしを立てるため野辺地へ出兵しました。弘前・黒石藩の津軽軍180人は3隊に分かれ、本隊は馬門村に火を放ちさらに野辺地村に進み、他の1隊は山道をとおり野辺地代官所付近まで進攻してきたことから南部軍は応戦しました。戦いは夜明けまで続きましたが、津軽軍は49名の死傷者を出し退却しました。              翌年、弘前藩では戦死者のうち27名の名を刻んだ墓石4基をこの地に建てました。墓石の裏面には「明治元年戊辰九月二十三日討死」とあり、近代日本国家建設までの激動をしのぶことができる本州最北の戊辰戦争に関する史跡です。》http://www.town.noheji.aomori.jp/category/185/185.html?section=25

このように、野辺地町のホームページには、弘前藩及び黒石藩の連合軍が、すでに降伏していた南部藩・八戸藩の陣地があった野辺地に急襲をかけたという記述は見当たらない。のみならず「勤皇のあかし」や「近代日本国家建設までの激動」などという旧態依然たる創作神話=勝者が綴った虚偽の明治維新史のことばがまことしやかに書き込まれていて、やはり驚きを禁じえないのである。

go top