「野辺地」行のまえに

z-szhb9xwzcm8ywuivlh1dp_tkbyy1qnttqymrhansgwjz4tw66xru75-b9e8jnpkojjkdpz0aoou68isohinqm7tmpdlhet1mfk上山藩も関わった「長岡山の戦い 」

寒河江市本町の陽春院(フローラさがえ附近)に桑名藩士19名と唐津藩士1名を合祀した墓碑がある。これは七回忌にあたる明治8年7月旧桑名藩主松平定敬と旧藩士24名によって境内に建立されたもの。 戊辰戦争の末期、新政府軍に圧された旧幕府軍および瓦解状態の奥羽越列藩同盟軍が各地で後退戦を余儀無くされ、全面降伏へと至る最終局面で起きた通称「長岡山の戦い」に関係している。

もともと桑名藩主松平定敬(さだあき)は京都の治安を守る京都所司代に任ぜられ、兄の会津藩主松平容保(京都守護職)とともに京都市中および御所の警護にあたっていた。しかし、薩摩藩の謀略によって鳥羽・伏見の騒乱以降「朝敵」の汚名を着せられ、新政府軍と戦い続けることとなった。桑名軍が最初に向かったのは慶応4年(1868)4月19日・23日の2波にわたって繰り広げられた宇都宮城攻防戦であった。この戦いでは土方歳三らと作戦行動をともにしている。その後、もともと桑名藩が柏崎に領地を有していたこともあり長岡城を巡る北越戦線に合流、フランス式用兵術を学んだ立見鑑三郎を雷神隊の隊長としてゲリラ戦で挑み新政府軍をおおいに苦しめている。のち会津城下での参戦を果たすが無念にも敗退し、鶴ヶ城攻防戦に参戦することなく、活路を出羽に求め庄内軍に合流しようと寒河江に向ったのである。慶応4年(18%e9%95%b7%e5%b2%a1%e5%b1%b1%e6%88%8a%e8%be%b0%e6%88%a6%e5%bd%b9%e5%8f%a4%e6%88%a6%e5%a0%b4%e7%a2%9168)9月19日、300人の兵団がようやく寒河江に入り、庄内藩士に迎えられるが、翌9月20日、新政府軍はその桑名・庄内の陣を急襲。桑名・庄内軍は長岡山に陣を張り交戦。しかし、次第に新政府軍に圧され、白岩の陣ヶ峰に軍を移し抗戦していた。新政府軍には土地勘が無く寒河江川を渡河出来なかったが、浅瀬を渡河した米沢藩軍によって攻勢をかけられた桑名・庄内藩連合軍は持ちこたえられず退却し、鶴岡へ逃れたと伝えられている。

ではなぜ、米沢藩が新政府軍と作戦行動を共にしたのか。実は上山藩軍もこのとき多少の時間差はあるものの、同じように苦しい立場にあった。米沢藩に関しては奥羽越列藩同盟の盟主のひとつでありながらすでに9月4日の時点で新政府軍に降伏していたし、上山藩も9月15日に降伏、その恭順の意を示すため新政府軍の傘下で「長岡山の戦い」に臨んでいたのである。ただし、上山藩軍が長岡山の戦いに向け出陣命令=庄内藩征討命令を受けたのが9月19日、到着した時には既に戦闘は終息していた(交戦したとする資料もあり)。

さて、その「長岡山戊辰戦役古戦場」の碑は寒河江高校脇の道を登って行った途中の厳島神社と八幡神社の鳥居に挟まれた三叉路の真ん中に建立されている。

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