金子与三郎の脱藩未遂事件と吉田寅之助

上山藩士金子与三郎が脱藩を試みた折、親友中村祐右衛門に託そうとした書状の現代語訳が紹介されている。

「一書、残しおきます。御存知の通りごく懶惰(らんだ=怠けるの意:引用者註)の上、多病で大役をつとめているが君恩の万分の一にも報いることが出来ず、このままでは商人も同様で、ただただ禄をむさぼるようなものです。これによる不孝不忠の罪は免れませんが家には相続の者が無い訳でもないので決然として退身する考えです。左様なことで再び拝顔することも出来ませんが御自愛御忠勤のほどかげながら祈ります。奥山忠吾・土田源兵衛両士へも幾重にもよろしく願います。胸中を開いて申し上げたいこともありますが、老父を捨て、国を去ること故、方寸も乱れ、諸事前後するように思いますが御察し下されたく、あらあら涙と共に筆をとりました。」(後藤嘉一著『やまがた明治零年・山形商業史話』より)

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金子与三郎(清邦)が親友中村祐右衛門宛の書状を記した日付は3月4日であることから、いろんな資料で判明している与三郎の略歴から考えて、それは嘉永5年(1852)3月4日ということになる。ここで思い出すのは、嘉永5年(1852)3月20日、脱藩して津軽までの旅にあった吉田寅之助(松陰)と仙台藩校養賢堂付近において、上山藩士森本友弥(当時藩内では与三郎の片腕と目されていた)と金子与三郎の末弟である金子平策が共に吉田寅之助(松陰)と面会している事実である。この脱藩未遂事件の後、10月までの間、 与三郎は謹慎の身にあったことから直接仙台に向かって吉田寅之助(松蔭)と面会することができず、代わりに平策が兄与三郎の遣いで行動していたのではないかと推測できる。10月になると、ようやく与三郎は父の許しを得て全国漫遊の途につく。北陸、山陰、山陽、九州への旅である。攘夷思想を通して金子与三郎と吉田寅之助(松陰)は互いにシンパシーを抱いていたと考えて間違いあるまい。旅を終え帰藩した後にまとめた海防論「杞憂臆策」は水戸学のイデオローグである藤田東湖を介して徳川斉昭に建白されたことは広く知られていることである。その水戸の藤田東湖こそ長州の松陰らに影響を及ぼした人物であった。水戸学=尊皇を旗印に武力倒幕=開国阻止を唱える思想的リーダーであった。

さて、金子与三郎が老中板倉伊賀守(勝静)の重臣山田安五郎に宛てた文久3年(1863年)6月2日付の書状「拒絶の大典」をひもといてみると、松陰や東湖と同じように、開国派の人物を悉く糾弾しているのが際立ってみえてくる。それは次のような内容だ。

「浜田侯含む4名3日を不出して奸を平らげるべし/酒井飛州含む6名 御役御免/一橋公御用人・平岡円四郎 早々退くべし/淺野伊賀守・小栗豊洲 放し打又屠腹なり(死罪)/水野痴雲 屠腹仰付て可然/勝麟太郞 右大奸似忠、無由断形跡/川勝丹波守 右西洋心酔小栗党と承り候」(『上山市史編集資料21・幕末之名士金子與三郎』118〜121頁、『上山市史・中巻』179〜181頁) 。

表現上の激しさにまず驚かされるが、これもまた金子与三郎の一面である。ここにあげられている人物たちについてもう少し詳しく記しておけば次のようになる。浜田侯とは、金子がこの書状を書いた一年後、孝明天皇が幕府に命じた長州征伐で長州軍と対峙することになる浜田藩主松平武聡。酒井飛州こと壱岐守忠行は、外国奉行や神奈川奉行を歴任した幕臣。平岡円四郎は徳川慶喜の側近で、公武合体を推進し尊皇攘夷派に睨まれていた人物。淺野伊賀守は大目付兼神奈川奉行、小栗豊洲こと小栗忠順は開国派のリーダー。また水野痴雲(筑後守忠徳)は外国奉行の職を解かれた開国派の武闘派で、考え方は小栗に近い。勝麟太郞は周知、川勝丹波守は小栗同様開国派の旗本である。

《資料》文中で紹介した森本友弥、金子平策と吉田松陰との出来事は、『東北遊日記』(岩波書店版「日本思想大系:吉田松陰」)に記載されている。ただし、金子平策の表記が金子平作になっている。

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