あらためて「庄内藩征討」の理由を巡って

本間勝喜氏の論文「慶応4年庄内藩の村山郡『預地』支配(上)」でその根拠を失ったかにみえる「寒河江・柴橋の米蔵から庄内藩が勝手に持ち出した新政府の財産である2万3千俵の米」説の、そもそもの出どころを調べていたが、大正6年刊の大冊『慶應戊辰奥羽蝦夷戰亂史』佐藤浩敏著(東北史刊行会刊/写真は、マツノ書店が400部限定で平成20年に復刻刊行したもの)に、もしかしたらその説に影響を及ぼしたと考えられる記事が掲載されている。それによると、新政府軍の庄内藩征討戦支援のため急遽奥羽の地に上陸した佐賀藩士前山精一郎が、その直後奥羽列藩の重臣たちの「庄内藩征討の理由」、つまり「庄内藩の罪状」に関する質問にこたえた短い発言に起因している可能性があることがわかった。引用してみると次のような表現である。

「肥前、小倉の諸軍は、仙臺に着航するあり。依て白石評定の時節柄にも在る事とて、列藩重臣は往いて接見す。論議たまたま庄内の罪状に及べば。肥藩参謀前山精一郎、列藩重臣に公言して曰く、彼藩たる、羽州領邑に在りて、徳川家の舊領地(寒河江柴橋の邊)を押領し、敢えて是を天下に秘す、澤三位卿是を厳督する所有しが、却って天童を討落し、掠奪強盗甚だしとの報ありて、今や此儘に捨て置き難く、先廻の官軍を援けて、禍根を絶たざる可らずと。即ち肥前小倉の諸軍は、庄内追討応援の兵なるを知るべし、意外なる哉肥軍の來意。」( 、。は原文通り/248頁より)

ここで登場している前山精一郎なる人物は、佐賀藩の策士で、仙台藩に事実上軟禁され窮地に立たされていた奥羽鎭撫総督府の九条道孝総督を奇策をもって秋田へと導き、救出した人物として知られている。正規軍とは別に、庄内藩征討応援参謀として松島に慶応4年閏4月27日に上陸している。

さて、引用文を精確に読んでみると、庄内藩征討戦が開始された後、仙台に着任した前山精一郎が発言した内容がまとめられているものである。内容は、徳川幕府の旧領であった寒河江・柴橋の領地について触れている部分は微妙なニュアンスの表現になっているが、確かに列藩の重臣たちから発せられた問いに対して、苦慮の末、征討理由として述べている文言のように読める。ただし、ここで注意して読まなければならないことがある。先の引用文にみられる天童を《討落し》の《討落》を慶応4年閏4月4日の庄内藩による天童のまちの焼き打ちと混同してしまえば誤りとなる。なぜなら時系列として見て行けば天童の焼き打ちは大山格之助の指揮の下、根拠も無く開戦してしまった征討戦の禍中の出来事で、それに対し《討落》は征討戦が始まる前の、寒河江柴橋代官所をめぐる役人、天童の名主、大庄屋たちと庄内藩との預かり地を巡る確執=利権抗争のことにほかならないからである。言われている旧幕府の領地は、慶応4年2月7日、それまで寒河江・柴橋代官所の支配下にあった村山郡旧幕府領の高7万4千石を「文久以来、数々の幕府に対する功に報いるため」(とりわけ江戸市中の治安維持の任務などー引用者註)として旧幕府が庄内藩に預けた(「事歴抄」による)土地である。そして、それを受けて庄内藩による実際的な「預地」の管理は、慶応4年3月初旬より開始されていることは事実である。その財産を、軍資金に乏しい新政府軍が欲しがったと解釈すれば筋は通る。だが、それとて正式な宣戦布告の理由ではなく、前山精一郎が思いついた策略だったのかも知れない。それがいつしか2万3千俵の米という創作に転移して行ったと考えられる。いずれにせよ、やはり庄内藩征討戦は、摩訶不思議なプロセスを経て闇雲に開戦された大義(征討理由)の無い戦いだったと考えるしかないようである。

本間勝喜氏の論文「慶応4年庄内藩の村山郡『預地』支配(上)」については【桁外れにすぐれた研究】参照。

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