上山温泉発見についてのノート・3

長禄元年説だが、これは安政2年に発行された『東講商人鑑』に拠っている。「出羽国村山郡上の山鶴脛の温泉の図」の見出し文に、「長禄元年開」とある。ただし長禄元年(1457)は実質的に3ヵ月しかなかったことから長禄2年説との関係は微妙。
長禄2年・3年説は、『上山市史』別巻下の「温泉町のにぎわい」の項をみると、文化9年(1812)頃には長禄3年説が定説であったとしている。しかしその後約30年の間に長禄2年説に変化し、発見の由来に鶴の一話が加わったと記されている。
(イ)文化9年(1813):当山湯開基、長禄3己卯歳、寛正4癸未天4月8日ニ寂、文化9壬申年丁350回忌(以下略/浄光寺月秀碑文)
(ロ)天保2年(1831):上山温泉の始は、長禄3己卯年浄光寺開山月秀という僧の見出し候也。以前、鶴落ちて足をあたたむるを見付候由。依之鶴の湯と申候由(仮称清光院萬覚書)
(ハ)天保7年(1836):開祖開山並湯坪年数書上ケ被仰付、配下末寺迄、書上ケ控月秀上人一、湯坪開基並寺元祖長禄3丁丑年、当年迄379年(浄光寺蔵「御公用本寺触願書並諸事記録」)
(ニ)天保14年(1843)A:長禄2年戊寅温泉開基、浄光寺開山月秀上人、肥前国杵島之住僧。
B:長禄3丁丑、温泉開基、仮に薬師堂しつらひに成。浄光寺月秀上人即浄光寺開山之和尚也。依而長禄院浄光寺ト云(清光院由緒書覚)。
(ホ)上山温泉の始は、長禄2戊寅年4月8日、軽井沢浄光寺開山月秀上人始て見立(旧原口村支村植山「木村六郎左エ門家記録」)
これらをみていると、「月秀上人発見説」の出典は、どうも浄光寺の縁起に関する話と深く関連しているようにみえてくる。しかも文化9年が間違いなくキーワードのようだ。比喩的にいえば、いつの時代かに何らかの理由により浄光寺開山にまつわる説話(物語)が必要となり著述された世界のようにも思われてくるということだ。当時無住となっていた法界寺に留まり、布教活動や地域の開発に尽力していたとされている月秀上人は、阿弥陀如来像を勧請して改めて浄光寺を開山したと伝えられている。もし月秀上人という僧が浄光寺を開祖した実在の人物なら、ましてや室町時代に上山温泉発見に関与している人物であるなら、なぜ月秀350回忌に当たる年の文化9年(1812)まで墓碑が造立されなかったのか、考えれば考える程、不思議なことだというほかない。それ以前、何処かに月秀上人の墓碑があったという資料を目にしたことはないし、話に聞いたこともない。この時の浄光寺はすでに第20世:中興良鏡上人随嚴和尚の時代である。それに月秀上人が亡くなった月日が寛正4年(1463)4月8日と伝えられているわけだが、その日は周知のように釈迦生誕の日とされている月日であり、なんともリアリティに欠けると言わざるを得ない。

go top