改めて戦後70年を掘り下げる

300万人以上の犠牲者を出した忌まわしい太平洋戦争が終焉して70年を経た。とは言っても、太平洋戦争はなにも単発的な戦争であったわけではなく、軍閥が日清・日露・日中戦争へと突き進むことによって味わい続けた戦勝という陶酔感がもたらした悪夢のような最終局面であったと考えるべきである。しかもその起点はすでに幕末期の無謀な攘夷運動にその根っこを持っていた。

ともすると日清・日露と日中・太平洋戦争の間に何の脈絡もなかったかのように扱われがちだが、疑問が残る。幕末期とりわけ文久年間に頻発した領事館焼き打ち、問答無用の外国人殺傷、開国派要人への誅殺といった攘夷に名を借りた凄惨なテロの数々。その行動を支えた思想こそが、近代以降のグローバルな思想史的視点で括れば一種の過激な排外思想にほかならず、さらに日本の近代化=富国強兵策の推進を通してその思想は変異し続け、もう一つの攘夷決行としての海外拡張主義(帝国主義)へと邁進して行くこととなったのである。その思想的支柱には吉田松陰の次のような考え方があった。

全文を引用する紙数がないので肝心な部分だけ書き出してみると、「いま急いで軍備を固め、軍艦や大砲をほぼ備えたならば、蝦夷の地を開墾して諸大名を封じ、隙に乗じてはカムチャツカ、オホーツクを奪い取り、琉球をも諭して内地の諸侯同様に貢納させ、会同させなければならない。また、朝鮮をうながして昔同様に貢納させ、北は満洲の地を割き取り、南は台湾・ルソンの諸島をわが手に収め、漸次進取の勢いを示すべきである。」(吉田松陰『幽囚録』より)という具合なのである。

この思想を松下村塾につどった門下生たち、とりわけ日本帝国陸軍の祖山縣有朋は忠実に実践しようと、長期に亘る戦争への端緒をつくってしまった。日清・日露・日中・太平洋戦争のプロセスを逆から遡ってみればそれは一目瞭然で、驚くほど吉田松陰の描いたプランに合致していることを知り愕然としてしまうのは筆者だけではあるまい。そしてその思想的な匂いは、現在主張されている「積極的平和主義」と著しく似ているのである。

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