全肯定も全否定も、違う!

いま「教育勅語」が話題になっている。この「教育勅語」自体は、わが国の戦争政策の反省をふまえ、戦後、国会において否定されたはずのものである。それがまたぞろ復古的に称揚され始めている。このような時代的な気分のなかで「教育勅語」をエモーショナルに全肯定しようと、全否定しようと、実は表裏一体のもので、どちらも危ういイデオロギーに対する信仰心のようなものであることを知らねばならない。きちんと文の構造(主語と述語の関係など)とそのロジックを認識した上で、それぞれの《徳目》について理性的に対象化してみる必要を感じる。こんな時代だからこそ、先入見を排除したニュートラルな精神の在りようがよりいっそう求められているのだと思う。

▶  ではさっそく「教育勅語」全文を掲載してみる。

朕惟(おも)フニ、我ガ皇祖皇宗、國ヲ肇(はじ)ムルコト宏遠ニ、徳ヲ樹(た)ツルコト深厚ナリ。
我ガ臣民、克(よ)ク忠ニ克(よ)ク孝ニ、億兆心ヲ一ニシテ世世厥(そ)ノ美ヲ濟(な)セルハ、此レ我ガ國體ノ精華ニシテ教育ノ淵源亦(また)實ニ此ニ存ス。
爾(なんじ)臣民、父母ニ孝ニ、兄弟ニ友ニ、夫婦相和シ、朋友相信ジ、恭儉(きょうけん)己(おの)レヲ持シ、博愛衆ニ及ボシ、學ヲ修メ業ヲ習ヒ、以テ智能ヲ啓發シ徳器ヲ成就シ、進デ公益ヲ廣メ世務ヲ開キ、常ニ國憲ヲ重ジ國法ニ遵(したが)ヒ、一旦緩急アレバ義勇公ニ奉ジ以テ天壤無窮ノ皇運ヲ扶翼スベシ。
是ノ如キハ獨リ朕ガ忠良ノ臣民タルノミナラズ、又以テ爾(なんじ)祖先ノ遺風ヲ顯彰スルニ足ラン。
斯ノ道ハ實ニ我ガ皇祖皇宗ノ遺訓ニシテ、子孫臣民ノ倶(とも)ニ遵守スベキ所、之ヲ古今ニ通ジテ謬(あやま)ラズ、之ヲ中外ニ施シテ悖(もと)ラズ。朕爾(なんじ)臣民ト倶(とも)ニ拳々服膺シテ、咸(みな)其徳ヲ一ニセンコトヲ庶幾(こいねが)フ。

明治二十三年十月三十日
御名御璽

▶  高橋源一郎氏による「教育勅語」の現代語訳。

教育勅語①「はい、天皇です。よろしく。ぼくがふだん考えていることをいまから言うのでしっかり聞いてください。もともとこの国は、ぼくたち天皇家の祖先が作ったものなんです。知ってました? とにかく、ぼくたちの祖先は代々、みんな実に立派で素晴らしい徳の持ち主ばかりでしたね」

教育勅語②「きみたち国民は、いま、そのパーフェクトに素晴らしいぼくたち天皇家の臣下であるわけです。そこのところを忘れてはいけませんよ。その上で言いますけど、きみたち国民は、長い間、臣下としては主君に忠誠を尽くし、子どもとしては親に孝行をしてきたわけです」

教育勅語③「その点に関しては、一人の例外もなくね。その歴史こそ、この国の根本であり、素晴らしいところなんですよ。そういうわけですから、教育の原理もそこに置かなきゃなりません。きみたち天皇家の臣下である国民は、それを前提にした上で、父母を敬い、兄弟は仲良くし、夫婦は喧嘩しないこと」

教育勅語④「そして、友だちは信じ合い、何をするにも慎み深く、博愛精神を持ち、勉強し、仕事のやり方を習い、そのことによって智能をさらに上の段階に押し上げ、徳と才能をさらに立派なものにし、なにより、公共の利益と社会の為になることを第一に考えるような人間にならなくちゃなりません」

教育勅語⑤「もちろんのことだけれど、ぼくが制定した憲法を大切にして、法律をやぶるようなことは絶対しちゃいけません。よろしいですか。さて、その上で、いったん何かが起こったら、いや、はっきりいうと、戦争が起こったりしたら、勇気を持ち、公のために奉仕してください」

教育勅語⑥「というか、永遠に続くぼくたち天皇家を護るために戦争に行ってください。それが正義であり「人としての正しい道」なんです。そのことは、きみたちが、ただ単にぼくの忠実な臣下であることを証明するだけでなく、きみたちの祖先が同じように忠誠を誓っていたことを讃えることにもなるんです

教育勅語⑦「いままで述べたことはどれも、ぼくたち天皇家の偉大な祖先が残してくれた素晴らしい教訓であり、その子孫であるぼくも臣下であるきみたち国民も、共に守っていかなければならないことであり、あらゆる時代を通じ、世界中どこに行っても通用する、絶対に間違いの無い「真理」なんです」

教育勅語⑧「そういうわけで、ぼくも、きみたち天皇家の臣下である国民も、そのことを決して忘れず、みんな心を一つにして、そのことを実践していこうじゃありませんか。以上!

明治二十三年十月三十日                                                             天皇」

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1948年6月19日、教育勅語について、衆議院では排除、参議院では失効確認がなされた。決議文の内容を見ると両院で微妙に見解が異なり、法学的な観点から次のように議論されることがあるようだ。衆議院では「教育勅語等排除に関する決議」を決議し、「この憲法は、国の最高法規であつて、その条規に反する法律、命令、詔勅及び国務に関するその他の行為の全部又は一部は、その効力を有しない。(第98条第1項)」という日本国憲法の本旨に従い、教育勅語等を排除することを宣言した。この決議については、教育勅語に国務大臣の副署がなく国務に関しない詔勅であったため、このようなものも排除できるのかという点で疑問とされる場合もあるが、日本国憲法が排除する詔勅を国務に関するものに限定する規定もまた存在していないという考え。参議院では「教育勅語等の失効確認に関する決議」を決議し、その決議文の中で、日本国憲法の人類普遍の原理に則って教育基本法を制定して、教育の誤りを徹底的に払拭して民主主義的教育理念をおごそかに宣明した結果として、教育勅語は、既に廃止せられその効力を失っているとした。ただし、日本国憲法にも教育基本法にも教育勅語を「廃止」する旨の規定が明文で定められていないことから疑問とされる場合もある一方、実質的に教育勅語が大日本帝国憲法と一対のものであったということから新憲法の制定によって実質的に廃止されたとされる場合もある。なお、法学的な細部の観点はともかくとして、一般的に現代の教育において教育勅語を教育理念とされることはない。感情を抑制しながら考えてみるべき大切なテーマだと思う。

◉いくつかの自註

▶  書き出し部にはさすがに大言壮語というか美辞麗句が並べられている。そしてすぐにこの文が作為的な創作であることがみえてくる。つまり日本史における「皇祖」は一般的な解釈では神武天皇を指すわけだが、それはあくまでも神話・伝説上の人物であるにもかかわらず、あたかも実在したかのようなストーリーを作り上げている。しかも、ここで百歩譲ってみても、古事記の記述によれば、神武は大義なく九州から近畿に攻め込み、殺戮と謀略を繰り返したあげく奈良盆地の一角を占拠した侵略者に過ぎないとされている。したがって、勅語に表現されていることは疑わしく、ましてや神武が「徳ヲ樹ツル」などとはとても言えまい。

▶  「皇宗(歴代天皇)」がずっとこの国を治めてきたわけでもない。そんなことはこの「勅語」を起草した者たち自身、重々承知していたはずである。鎌倉時代から江戸時代末期までの600年余は武士が政治権力を握り国を治めてきたことは周知のことである。徳川慶喜が政権を天皇(朝廷)に返したあとも、一定期間、執政は徳川家に委ねられていた状態だったことをみても頷ける。実にこの「勅語」が発布されるわずか25年前でさえまだ江戸時代であり、現に徳川家の将軍が天下を統治していたのである。

▶  幕末維新期の一般庶民にとって、そもそも「天皇」など知らないか、知っていても関心の対象外だった。尊皇攘夷の復古思想がにわかに唱えられ始めた頃でさえ、それは大衆化することはなく、一部の過激な尊皇攘夷派の旗印に便利につかわれた符牒でしかなかったのである。だからこそ、明治の初めから10年代にかけて、民衆に天皇という存在を知らしめ、その権威を見せつけるための全国巡幸が必要だった。いわば、それは大規模な天皇の顔見世興行であったと言える。

▶  さて、教育勅語そのものに戻ろう。基本的には主権在臣で、現人神である天皇のために私たちが存在している事になっている。12あるといわれる徳目のなかの「一旦緩急アレバ義勇公ニ奉ジ以テ天壤無窮ノ皇運ヲ扶翼スベシ」こそが教育勅語を発布する究極の狙いであったと考えられる。これに先立つすべての文言は、この最後の徳目に正当性を与えるために書き置れているいわば枕詞の役割を担わされているように思えてならない。いざとなったら家族や愛する人のために戦うのではなく、神である天皇のために私たちは黙って命を捧げるという意味のことが書かれているのである。

▶  しかもこれを我が日本民族固有の精神に根ざした愛国的道徳もしくは愛国心であるかのように説く人たちがいるが、それはやはり違うと言わざるをえない。あくまでも儒教思想がベースとなっている規範であって、基本的には孔子が著した「論語」から、いうなれば中国から渡来してきた考え方=思想であることは知っておくべきであろう。

▶️  たしかに「論語」的な部分、つまり 「父母ニ孝」「兄弟ニ友」「夫婦相和」「朋友の信」「謙遜」などの徳目は、二元論的に全肯定するのも全否定するのも困難な内容を有しており、現代にも通じる、ある意味首肯しうる人間の自然性に依拠した原モラル的な表現である。だが、残念ながら全体的にはやはり画一的に「こうあらねばならぬ」というロジック上で構成されており、現在の私たちの感性にはそのままでは馴染まない世界であると言える。

▶  この文言を《誤りのない完璧な道徳規範》として、すべての学校で御真影を前にして強制的に奉読させること55年。いかなる戦争であろうと天皇のために命を捧げることが愛国者の生き方であると徹底的に刷り込まれた。戦争遂行を疑おうものなら「非国民」「亡国者」と糾弾され、ひどいときには国家転覆を狙う分子として検挙される状況が続き、ふと気がついてみると300万人以上の犠牲者を出し、我が国はついに無惨な敗戦国となっていた歴史を忘れてはなるまい。

▶  教育勅語発布時のエピソード

明治22年(1889)2月11日、大日本帝国憲法が公布された後、同時に教育勅語(正式名称は「教育ニ関スル勅語」)の制定をもくろんでいた政府だが、森有礼のあとを継いだ、時の文部大臣・榎本武揚(旧幕臣)はこれを拒否。するとどうしても軍国主義国家建設のための精神的バックボーンを形成するためのシステムを必要としていた山縣有朋内閣総理大臣は榎本武揚を更迭、代わって腹心の芳川顕正を後任に充て強引に制定した経緯があった。それが明治23年(1890)10月30日に発布された教育勅語である。明治天皇の命によって、井上毅(こわし)と元田永孚(ながざね)が文章の起案にあたっている。その後、奉安殿が設置され御真影の下賜が始まったのが明治末期の1910年代である。
有無を言わさぬ武力行使によって政治権力を奪取し、もう一つの攘夷決行としての海外拡張路線を推し進めようとしていた新政府。勝者の利権であるかのように嬉々として新政府要人となっていった薩摩・長州閥の人材にくらべ、旧幕臣たちはずっと教養豊かで、世界認識においてもまともであったようだ。教育勅語の錯誤性に気づいていた榎本武揚の見識、それのみならず承認を拒否した文部大臣としての矜持はそれを物語っているように思えてならない。

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