感謝。そして、ふと考えたこと

◎感謝                                               小雨降る中、大勢の方に参加して頂き、上山城歴史講座 vo.1「上山温泉〈発見〉考」を無事終えることが出来ました。拙い話ではありましたが問題提起くらいは出来たように思います。ありがとうございました。こころより感謝申し上げます。

◎そして、ふと考えたこと                                      現在の上山の在りようにつながる町づくりの基礎を形成したのは《土岐氏》が入部してから、というのが『上山市史』などで一般論・通説とされているようだ。だが、このたび「上山温泉〈発見〉考」講座のためのレジメをまとめて行く過程で、その説に対して一つの疑問が浮上してしまった。それまで湯町にあった浴場を十日町に移し「下の大湯」として一般に開放する反面、湯町の源泉は藩庁の管理下におかれ、周辺一帯は家中地とされたわけである。当時の上山藩主は幕藩体制成立後初めて入部を命じられた《能見松平氏》(4万石)であった。時の当主である松平重忠は、最上家改易のあと山形に磐城平から転封した鳥居忠政(22万石)の従兄弟にあたる人物である。鳥居氏はもともと徳川家臣団の一翼を担っていた有力大名のひとつで、山形への移封は新庄に入部した戸沢氏ともども秋田の佐竹氏への対応策にほかならなかった。したがって《能見松平氏》の上山入部もその一環としてあった。話が横道に逸れてしまったが温泉の話に戻すと、《能見松平氏》が手掛けた共同浴場を全く別の地域に移す作業は、現在的にいえば土木工事だけを想定してもかなり大掛かりなものであったろうと考えられる。つまり、講座の中でもお話しさせて頂いたが、《能見松平氏》時代すでにかなり大規模な町づくりの構想、着手があり、それ相当の事業が開始されていたのではないかと思えてならないのである。松平(能見)家⇒蒲生家⇒土岐家⇒金森家⇒松平(藤井)家と変遷を遂げた上山の領主だが、土岐家入部まで、町づくりが手つかず状態であったとはやはり考えにくい。どう考えても、江戸時代に入って最初に上山を治めることになった藩主が戦国時代の遺制を引き摺ったままの未整備状態の領地・領民を統治するため、様々な事業を展開し、そのことによって藩としての形を構築していこうとしただろうことは至極当然な流れだったと思えるからである。しかしながら、統治時代の資料が残されていないためなのか、冒頭にも述べたように『上山市史』をはじめとする様々な市史関連資料において、《能見松平氏》の治績検証がきわめて手薄なものに感じてしまうのは小生だけだろうか。専門家のご教示を頂戴できれば幸甚である。

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