なにが「尊王攘夷」か!

蛤御門を訪れてさらに思いを強めた。「御所」に大砲を撃ち込んだ勢力は「尊皇」に非ずという、実にわかりきったことだった。
しかも「攘夷」をも旗印にして外人斬りに興じていたこの勢力は、暴力革命=倒幕を成し遂げるや、たちまち真逆の欧化主義(鹿鳴館はその象徴)さらには海外拡張主義に走って行く。その矛盾は、いかなる詭弁を弄しても説明できないだろうということだった。

この歴史的詐術を、よりいっそうわかりやすく要約して言うと、なにが「尊王攘夷」か!ということになる。

明治30年、新聞「万朝報」に書いた内村鑑三の真っ当な維新観、エッセイ「大虚偽」を引用しておきたい。是非一読あれ!

【内村鑑三の明治維新観】
「余輩は思う、新日本は薩長政府の賜物なりというは、虚偽の最も大なるものなりと。
開国、新文明、版籍奉還は、一として薩長人士の創意にあらず。否、彼らは攘夷鎖港を主張せし者なり、しこうして自己の便宜と利益のために主義を変えし者なり、すなわち彼等は始めよりの変節者なり。新文明の輸入者とは、彼らが国賊の名を負わせて斬首せし小栗上野介等の類を云うなり。
……中略……
新日本は文明世界と日本国民との作なり、開港和親は、みな旧幕政府の創意なり、この点に関して、われら日本人は薩長政府に一の恩義なし。」

金戒光明寺境内の「会津藩殉難者墓地」について

文久2年(1862)、会津藩主松平容保が京都守護職に任ぜられて以降、慶応4年(1868)鳥羽・伏見の騒乱に至るまでの約6年半の間に、400名近い会津藩士が尊い命を落としている。その御霊を祀った墓地が、会津藩が京都守護職の本陣として1、000名の藩士等とともに滞在したといわれている金戒光明寺境内に整備された「会津藩殉難者墓地」である。碑には次のような文が刻まれている。

会津墓地の由来

幕末の京都は暗殺や強奪が日常化し、徳川幕府はついに新しい職制を作り京都の治安維持に当たらせることになった。これが京都守護職である。文久2年(1862)閏8月会津藩主松平容保公は14代将軍徳川家茂から京都守護職に任ぜられ同12月24日、家臣1000名を率いて京都に到着、京都所司代・京都町奉行所の出迎えを受けて本陣の黒谷金戒光明寺に威風堂々と入陣した。黒谷金戒光明寺は、自然の要塞になっており、御所や粟田口にも近く軍事的要衝の地であった。また、大きな寺域により1000名の軍隊も駐屯することができた。当時の京都は尊攘激派による暗殺の坩堝と化していたが、守護職となった会津藩の活動には目を瞠るものがあり、翌年8月18日には激派の公家を追放し、元治元年(1864)6月には守護職配下の新撰組による「池田屋騒動」、7月18日19日の「禁門の変」の勝利などで治安は回復されてきた。しかしながら会津藩の犠牲は大きく、藩士や仲間小者などで戦死、戦病死する者が続出した。そこで本陣の金戒光明寺の山上に300坪の墓地が整備され葬られた。その数は文久2年から慶応3年までの6ヵ年に237霊をかぞえ、後に慰霊碑を建立し鳥羽伏見の戦いの150霊を合祀した。松平容保公は孝明天皇の御信任厚く禁裏洛中を挙藩一致して大義を明らかにし、会津藩の忠誠は歴史にその名を残した。この忠烈なる真義に徹した英魂の遺徳を顕彰せんが為にこの碑に由来を誌す。

松平 容保公 都の歌会にて御詠

窓前竹

さす月よ うつるのみかは 友ずりのこゑさへ きよし 窓の呉竹

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